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初デート

初デート

 1月13日、成人の日。
 長女真菜・高一と初めて二人だけで出かける。

 翌14日は、真菜の16歳の誕生日である。でも、学校がある。

 13日朝、日課としているハッピー(ミニチュアダックスフンド♀7歳)との散歩の後、
150m離れた執務室に向かう私の背中に、妻が「真菜に何か買ってあげれば?」...

 私たちには、末っ子の真菜のほか、3人の男の子がいる。
 間隔が上から7、5、3年なので、長径15年の子育てをいまだ行っている。
 ちなみに、現在三男が大学1年、真菜が高校1年である。

 男の子は、大学に入るまでサッカーか野球に力を注いだ。
私が大学で空手道を始めるまで、真剣に野球をやっていたこともあり、
特に、次男、三男は小学低学年から野球のクラブチームに入り、
土日はほとんど夫婦で支援してきた。

誕生日なども、妻得意のケーキにロウソクを立てて祝ってきた。
ことさらプレゼントはしてこなかった。
 

 真菜が生まれた時には、次男がすでに小学のクラブチームで野球を行っていた。

 また、私はすでに単身赴任中で、
真菜と一緒に住みだしたのは10歳の小4以降である。

 真菜にとってお父さんは「たまに尋ねる人」であった。
休暇で数日一緒に過ごしたあと、妻が真菜を買物に連れていくと、
八百屋の親父さんを見て、「とうさん」と言ったエピソードもある。

大学生になった長男が抱っこして3人で買い物に出かける時もあり、
このときは、「若いお父さん」とうわさされたらしい。

 もっとも、クラブチームなので、特に母親の協力も大切である。
結果として、真菜の生まれた時から週末・祝祭日の遊び場は、
グランドとなった。

それでも親子5人やがて4人で足掛け17年間、楽しく過ごしたものだ。
 
 ところが流石に小学6年になると、自我も芽生えて、
グランドについて来なくなった。

ということは、たまに単身赴任先から帰宅しても、
真菜と正面から向き合うことが無かったといえる。

 行動の初動の遅い真菜だが、運動をしなかっただけで、能力はある。
小さいときに、冬になるとスケートに連れていってほしい、とよくせがまれて、
次男・三男の野球のない時に連れて行ったものだ。

スケート場に着くと、貸スケート靴を自分でさっさと履いて、
一人でどんどん滑っていた。

もし、私が資産家で、金銭的余裕があったならば、
真菜にスケートを本格的に行わせていただろう・・・。

 要するに、野球を通じて親子でともにぶつかりながら育った男兄弟と違い、
真菜とともに過ごしてやれなかったという、思いは残っている。


 それに、女の子の成長過程特有の「お父さん嫌い病状」も出た。
小学6年の卒業式と中1の入学式には、

 「お父さんこないで!」

 妻が理由聞くと、

「髪の毛のないお父さんいやだ...」
 
他の同級生のお父さんに比べて一回り歳をとっているので、
それもきっと嫌なのだろう。

 ま、じっと症状がおさまるまで待つしかない...

 それから3年、
 高校に入ったころから、少し変化が出てきた。

 妻がカラー診断&メイクやヘルシークックで出かけるときなど、
二人きりになるので、私が簡単な昼食を作ると、
一緒においしそうに食べるようになった。

味付けに失敗しても、「おいしい」と残らず私と同量食べてくれた。
 
 外から帰って靴を脱ぐ場合、「出船」にするのが日本の躾である。
長男からそう言ってきたはずだが、我が家で必ず出船にするのも、
実は真菜だけとなっている^^

 3週間前、真菜と妻と3人で、妻が見たいという「ゼロ・グラビティ」を見てきた。
今度は、私が妻に「永遠の0」を誘った。

ところが、体調もイマイチのこともあり、断られていた。
 
 こういう流れの中で、執務室に着いたあと、自室にいる真菜に携帯のラインを使って、

「真菜、誕生祝いに、美薗に買い物にいかないか?
      その前に、映画、永遠の0みよう!^^」

「わかった!」

というわけで、お互いの人生で初めて、父と娘と二人きりで映画、
ショッピング、食事、ドライブのデートをしてきた。


 映画が始まる前まで40分ぐらいあったので、
美薗ウォール街で気に入った服をあらかじめ探すことにした。

妻から、以前、真菜は気に入るの探すまで時間かかる、と聞いていたからだ。
ところが、二軒目で、あっさり、トレーナーとスカートを決めた。

しかも覚悟していた予算が一桁も安い。
合わせて宴会代1回分にも満たない^^;


 永遠の0は、出版の時に、1冊送っていただいていた。
資料が限られているなかで、完結しなければならない著者の苦労を知っていた。
そこのところを映画でどう創るか、楽しみでもあった。

 そして、映画が始まった・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 岐路に着いた車の中で、助手席に座った真菜に、
海軍軍人だった父のことを初めて話した。

真菜にとっては、祖父だが、真菜が生まれる7年前に他界している。

田舎といえば、手を握ってみおくった祖母しか知らない。
もし、父がいなければ、私も15歳から自衛官になっていなかっただろう。

父は、戦争のことはほとんど話さなかった。
軍人としての夢破れて昭和22年に母のもとに帰ってからは、農業で身を立てた。

自分だけでなく、周りの人も幸せにしなければならない、という信条のもと、
最後は教育委員長まで行った。

最後の篤農家と私は思っている。

 あれは、私が中1の時だった。
急に千葉から父のシンガポール時代の部下が
私と同じ年の娘さんを連れて家族3人で尋ねて来られた。

父に日本に連れて帰ってもらったお礼にわざわざ愛媛の最南端まできて、
「よければ将来、娘を嫁がせてほしい・・」と。

かなりの将兵が、本国には戦死と嘘の報告をして、現地に残り、
現地人として解放戦士となって骨をうずめたという。

その中で、父は、船の全員を連れて帰った・・・。

「俺たちが帰れば、日本は再生する!」

今となれば、もっともっと戦地の真相、父の思いを聞いておくべきだった・・

真菜に、祖父のことを話せて本当によかった。

 帰宅後、真菜がお風呂に入っている間に、執務室に行き、
パソコンに記憶させているかって書いた祖父母についての、
2000字エッセイ「いのちをつなぐ約束」を印刷してきて、真菜に渡した。

4人の子供への遺言代わりに自費出版した「心の旅路」
(新版:新日本文芸協会)に乗せた思い出のエッセイでもある。

原文には、真菜と祖母が一緒に映った写真と、
祖母のマンションでの通夜の時の仏壇の写真が載っている。

1枚は、真菜3歳の時、愛媛から出てきた祖母とマンションのバルコニーで
一緒にカレーを食べている場面。

もう1枚は、自衛隊中央病院に入院している祖母のベットの横で
最後の真菜とのツーショット。

この後、マンションの家に連れてかえって、短いながら一緒に水入らずで過ごした。
孫4人と一緒に暮らすことが祖母の人生最大の夢だった・・・

最後に、そのエッセイをお届けします・・・ 
 


      いのちをつなぐ約束
           ・・・このエッセーを今は亡き父母に捧げる

 84歳の高齢で末期癌に侵されながらも気丈夫だった母が最後のトイレに一人で行った後、
「後は頼んだよ」とついに子供部屋の仮の自分のベットに横たわった。

 そして「父(14年前に他界)が綺麗な所からおいでおいでと迎えにきている」と伝え、
学校から帰宅した4人の孫達に

「大学最後まで頑張って...」
「好きな高校で野球頑張って...」と最後の遺言。

 その夜、苦しそうな母の呼吸の間隔が段々と長くなる。
「明日の朝には姉夫婦が来るけど待つ?」と聞くと目を開け顔を横に振る。

そこで母の上体を抱きかかえ、子供達に手をしっかり握らせ

「お母さん84年間ご苦労様。後は子供達がしっかりやるからお父さんの所にいってらっしゃい」

と声をかけると、目を開け抜けるようにと父の下に旅立った。


 母は、子供に恵まれなかった我が家に隣家から6歳で養女としてやってきた。
 隣にいるだけに里心が出ないように実母が他人として厳しく接し、
辛い思いをして忍耐強く育った。

 父は同じ村に7人兄弟の末っ子として生まれた。
旧家ではあるが生業の製材所が斜陽でしかも子沢山。

父は家計を助けるため山仕事、農作業などの奉公に小さいときから出た。
体格もよく働き者の父は仕事師として評判だったという。


 当時の愛媛の最南端の寒村の娯楽は相撲。
父も青年に達する頃には八重鶴という四股名でならした。

最大のイベントは5人ずつの勝ち抜き戦で行われる土佐対伊予の対抗戦。

 昭和8年、二十歳になり家庭事情で海軍入団を決めた最期の相撲大会に
父は伊予の大将として出場。
土佐方は最強選手を先鋒に持ってきてあれよあれよいう間に伊予の4人を破る。

「伊予の鬼、八重鶴を出せ~」と相手方応援団が野次る中満を期して土俵に上がった父は
逆に一気に4人を倒し、いよいよ大将決戦。

いやが上でも土俵は盛り上がる。

父は得意の胸あぐらで倒そうとするが流石に疲れていて
相手に体を浴びせられほぼ同体で土俵際に倒れる。
内心「負けた」と思ったらしい。

 しかしどちらの陣営も「勝った!」「勝った!」と大騒ぎ・・。
 
 その時、名村長が土俵に上がり「この若者は明日海軍に行く。
国のために命を捧げる若者に花を添えてくれないか」。

「おお!!いいぞ~~!」
「八重鶴の勝ちだ~!」
「国のために頑張ってこ~い!!」。

勝ち名乗りを受けながら父は人の世の情けに涙した。

そしてこの父を土俵の下で14歳になった母が淡い乙女心でじっと見つめていた。
同じ波は引き合うと言うが、二人はいつしか知り合い生涯の伴侶として考えるようになる。

そして昭和15年戦争前最後の帰省時、戦地から帰ったら婿養子になることで婚約。
 
 南方に出征する父に母は綾錦の帯で尺八の袋を作ってお守り代わりに渡した。
父が趣味で手作りの尺八を嗜むことを知っていたからだ。

 二人にとって綾錦の袋が

「必ず帰ってくる」
「いつまでも帰りを待つ」
 
   という約束の証であった。

 それから7年間、戦争は二人を逢わせてくれなかった。

 特にシンガポールで英国軍の捕虜となった最後の2年間は一切音沙汰無し。

 「もう帰ってこないから他に養子貰え」
 という周囲の勧めに母は

 「たとえ帰らなくとも他の人とは結婚しない」。

 
 現地では、解放軍の将校待遇での勧誘に多くの将兵が応じる中で、
父が傍らの綾錦の袋を見つめながら

「我々が帰れば日本は再生できる」

 と部下を説諭。
 
 結局父の乗組員は全員無事帰国することができた。 
 
 今、その綾錦の袋は父と母が二人で築き、
母亡き後は空き家となっている田舎の我が家のリビングで一人?
孫の帰りを待っている。

 もし、二人が7年間約束を守っていなければ、
今の私はおらず、母の最後を看取った4人の孫もこの世に生を受けていない。


 いのちをつないだ父と母の固い約束にただただ感謝するのみ。


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◆池田整治 
 公式HP: http://ikedaseiji.info/
 携帯:  seiji-heart.hul.21@docom.ne.jp
◆東藝術倶楽部顧問
◆美し国 副代表 http://umashikuni.co.jp/index.html
◆池田整治監修の防災セットはこちら http://ikedaseiji.info/bousaiset/
◆『目覚めし「ヤマト魂」たちよ、地球「最後の戦い」が待ってるぞ!』 (ヒカルランド)
◆『[親米派・親中派]の嘘』 (ワニブックス)
◆『ヤマトごころ、復活!』 (新日本文芸協会)
◆『今、「国を守る」ということ 日米安保条約のマインドコントロールから脱却せよ』
◆『ついに来たプラズマ・アセンションの時』 (ヒカルランド)
◆『脱・洗脳支配』 (徳間書店)
◆『マインドコントロールX 国防の真実』 (ビジネス社)
◆超マインドコントロール2 日本人だけが知らない! 日本と日本人の凄さ!
◆『超マインドコントロール』 (マガジンハウス刊・アマゾン総合第2位を記録)
◆『原発と陰謀』 (講談社)
◆『マインドコントロール』 (ビジネス社)
◆『マインドコントロール2 ~今そこにある情報汚染~』 (ビジネス社)
◆『転生会議』 (ビジネス社)
◆『心の旅路』(新風舎)(新日本文芸社:改訂版)
◆『なかったことには出来ない話』(新日本文芸協会)
◆写真集『今を生きて~ガイアからのメッセージ』(新日本文芸協会)
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