江戸蘇り富士紀行...明治維新再考(その一)
1月22日旧暦の大晦日に、顧問をしている東藝術倶楽部の「江戸勉強会富士初夢編」に参加して、
久しぶりに富士山と向かい合いました。
そして改めて、歴史再考、つまり明治維新の再評価の必要性を痛感しました。
また、このような現地勉強会を行ってくれる同倶楽部の黒木代表の企画・実行力に感動しました。
さすが、元自衛隊幹部で、現職時代に「現地戦術教育」の教官として何度も場数を踏んでいるだけあります。
水を得た魚のように現職そのままの活躍でした^^。
彼が今回1回限りの「ツアー・コンダクター兼インストラクター」を行なうにあたり、
どれだけ準備したか、私の体験に基づき「推察」してみます。
1 昨年12月4日に行った「江戸勉強会屋形船からの隅田川橋めぐり編」終了後から、
新年にふさわしい「富士」編を立案・企画。
2 企画案に基づき、現地での教官を調整して依頼。教官との事前偵察計画策定。
なお、教官として、地元で「曽我物語」も出版している郷土研究家の高橋さんに依頼。
もちろん東藝術倶楽部会員。同会にはこのような方が多い。
3 1カ月ほど前に、偵察計画に基づき、実際に高橋さんと現地ルートを偵察、予行。
配布資料のための現地の資料収集及び写真撮影。
4 予行に基づき、細部計画を策定。収集した資料、写真に基づく現地「配布資料」作成。
5 当日、ツアー・コンダクター。全般統制兼盛り上げ担当。
6 終了後、HP東藝術倶楽部
に同勉強会記事投稿。
彼がいかに緻密に計画したか、参考のために一例を紹介します。
ツアーは、都内から20人乗りのマイクロバスを使いました。
ドライバーもプロの同会会員です。
ところが、最初の目的地の薩埵(さった)峠には乗用車でないといけません。
そこで、興津からは4台の乗用車に乗り換えて、薩埵峠に向かいました。
ここで、さらに問題が...
実は、前日、私と黒木君は名古屋にいました。
私が副代表を勤める新たな国民運動「美し国(うましくに)」の
池田整治特別講座第2回講演があったのです。
黒木君は、講演終了後、翌日のツアー・コンダクターとしてただちに帰京しましたが、
私は地元の方々との交流会に残り名古屋泊。
翌朝、講演会にも参加して頂いた名古屋の水田ご夫妻と、
指定された列車で興津に移動しました。
すると、駅に自家用車で高橋さんが迎えに来て下さっていたのです。
駅からは、同市内のレンタカーショップに行き、ツアー本体と合体。
レンタカー3台プラス高橋さんの車4台に分乗し、まず薩埵峠に向かったわけです。
しかも3台のレンタカーは、この峠の研修1時間だけですから、経費も僅かです。
万事がこのような素晴らしい企画・調整・実行でした。
さて、その薩埵峠は、東海道随一の富士山景勝地として有名です。
皆さんも安藤広重の浮世絵「由比薩埵嶺」で何度かお目にかかっていると思います。
左手の崖から駿河湾越しに富士山を見る旅人の構図です。
右手には駿河湾に4艘の帆掛け船。
ところがその奥にあるはずの伊豆半島がありません...。
実は、ここにも明治維新からの、市民には絶対に尻尾を見せない、
今も覆っている「闇」が垣間見えてくるのです。
まず、薩埵峠の由来を説明しておきましょう。
薩埵峠は、東海道の興津宿から由井宿までの3キロ余りの間に位置する峠です。
古来より箱根などとともに、東海道の難所でした。
しかしそれ故に、富士山の絶景ポイントの名所としても有名でした。
いまなら東名高速道路下り車線の由井パーキングエリアから同じ構図で富士山を見ることができます。
もっともこの場合は、海岸線ですから、薩埵峠のような立体感はありません。
しかし、右脳で「想像・創作」することはできます。
実は、これこそ、浮世絵の画法であり、日本人が世界に誇る「美的右脳創作感性」なのです。
西欧人にはこの右脳的「創造」ができない、わからないのです。
名の由来は、鎌倉時代に下道(旧東海道)の「親知らず子知らず」の
海岸(由比倉沢)の海中から漁夫が網で薩埵地蔵を引き上げ、
それを上道(新東海道)の旧岩城山に地蔵堂を建てて安置したことに始まります。
それ以降この山を薩埵山(峠)と呼ぶようになったわけです。
なお、「薩埵」とは、「菩提薩埵」の略で、「菩薩」と同じです。
ところで、ここに薩埵峠から同じ構図で描いた歌川国貞の浮世絵があります。
こちらは歌舞伎役者の背景に峠からの富士山が描かれています。
隣に置いて比べれば、広重の画家としての「へたっぴ」が浮き彫りになります。
まず、左手の峠から富士を眺める旅人。国貞の絵では、空際線上に浮き上がり、
峠の上から海越しに富士を眺める構図がよくわかります。
ところが広重の方は、富士との間の崖が幕として遮断しており、
角度的に旅人からは富士山が見えない構図となっています。
旅人が立っている崖も最後まで急峻で、今にも海に滑り落ちそうな感じです。
そして右手の駿河湾の奧。
国貞の方は、画面の右までずっと伊豆半島が描かれています。但し、
最後は帆掛け船で隠れています。
ところが、広重の方は、半島が海の途中までしかありません。
というよりも、駿河湾が伊豆半島に囲まれていることを理解してないとしか思えません。
半島そのものがない構図です。
写すときに、帆掛け船の奧は陸地が終わって海だと「解釈」したのでしょう。
これは、現地に立てば一目瞭然です。
そうなのです。
広重は、一度も薩埵峠を訪れたことがなく、
当時の浮世絵の大家であった歌川派の絵を描き写したのです。
広重の有名な浮世絵の絵は、このような写し絵が多いのです。
なぜ、このようなへたっぴの広重のそれも写し絵が、
明治維新以降、浮世絵の大家として有名になったのか...。
そこに明治政府の闇があるのです。
江戸時代に、浮世絵と言えば、「歌川派」そのものでした。
江戸幕府公認の最大出版会社と言えます。当時は、「自然との一体感」のヤマトごころと、
「誠実」な武士たちが統治する、訪れた外国人も感嘆した「この世のパラダイス」でした。
その市民生活を描いた浮世絵がフランスのゴッホに届き、印象派となり、
そこから始まった意識革命を通じて、自由民主主義運動が欧州で起こったのです。
結果、世界の虐げられた人々を解放したのです。
その江戸を完全否定して、西欧金融支配体制者たちの後ろ盾でできたのが、明治政府です。
間違っても江戸を称賛することはできません。
江戸の礼賛がイコール彼らの否定になります。
だから、「歌川派」自体は、明治政府に廃絶させられました。
但し、浮世絵を通じた日本の素晴らしさは、既に欧州に行っており、
浮世絵自体の存在は否定できません。
そこで無名だった「歌川」広重を、「安藤」広重と名乗らせ、
浮世絵=安藤広重と、御輿を担いだわけです。
それ故、本来の芸術性の高い歌川派の浮世絵を、広重にせっせと描き写させて、オリジナルと詐称したのです。
ここに明治維新の一つの暗闇があります。文化的マインドコントロールです。
ちなみに、その「真実」をあきらかにして、歌川派を復活させたのが、五井野正画伯・博士なのです。
つまり、五井野博士が、日本本来の江戸ユートピア市民社会を歴史上世界に再登場させたのです。
その流れで、東藝術倶楽部という勉強会が黒木代表の提唱で起こったわけです。
江戸の士農工商、老若男女が同じ人間という平等の立場で楽しく仲良く行っていた「江戸勉強会」の再現です。
ここでは、年齢・身分・階級などを聞くのは無粋ものと思われました。
ところでゴッホに初めて浮世絵を見せたのは、娼婦であった奥さんと言われています。
当時のフランスでは女性の6人に一人が娼婦と言われ、ずっと社会の底辺にいたわけです。
ところが、日本では花魁に代表されるように、お姫様にもなれる。
そういう意味でも、ゴッホは、天国日本に仲間を引き連れて奥さんともども来たかったのです。
その日本への夢の「ツアー」を象徴的に描いたのが、
ゴッホの「雨の橋」(広重の浮世絵「あたけの夕立」の模倣と言われている)なのです。
描いた川は三途の川でもあり、橋の手前がこの世のフランス、向こう側が彼岸・天国の日本なのです。
ゴッホは、日本のわび・さび、そして輪廻転生もわかっていたのです。
ゴッホがついに描けなかった「6本の向日葵」とは、
そのツアーの絵で橋の上に描かれているゴッホ自身も含む6人を意味します。
橋の上で、ゴッホが仲間5人を日本に連れて行っているのです。
もちろん、ひまわりは日本であり天国も意味します。
その「六本の向日葵」をゴッホの代わりに、
ゴッホの魂とともに描いたのが五井野正画伯作の「六本の向日葵」なのです。
その五井野画伯の絵は、印象派を超えた心情派として世界で評価を受け、
エルミタージュの美術館でも個展がひらかれました。
生存画家で個展をひらいているのは、世界で五井野画伯だけです。
これだけでも外交の切り札になるのに、
日本では、為政者たちにつながる某組織によって封じられて来ました。
先日、米国UCLAに留学したこともある知人からメールを頂きました。
米国の友人宅に行くと、ロシアの孤児院から18歳と16歳の二人の姉妹が3年前から養女できていました。
彼女たちの孤児院には、小さいときから篤志家からのエルミタージュ美術館の招待券がよく届き、
そのため彼女たちも説明係並に詳しく話せるようになったそうです。
その彼女たちに、五井野画伯のことを聞くと、
「もちろん知っています!小学校3、4年の教科書でも習った!」
と即座に答えたそうです。
博士が世界初の大量生産に成功した夢の新素材・ナノホーンを使った未来型のノキアの携帯電話と
エアーバスの飛行機のYouTube映像も既に彼女たちは知っていました。
知らないのは、マインドコントロールを受けて情報封鎖されている日本人だけです。
明治維新の前と後で日本のユートピア社会がいかに劣化していったか。
吉原等「花魁」で証明します。
吉原等遊女と聞くと、小さいときに貧しい農家から身売りされた可哀想な少女たちと連想します。
それは、「女衒」という映画や、ドラマ、そして大衆小説家たちの作品を通じて、
私たちの先入観として「刷り込み」されているからです。
実は、これらの作品群すべてが、明治維新以降のものだと改めて考えたことがありますか?
つまり、明治維新以降の実態を表現しているのです。
それを、江戸時代はもっと酷かったと、かってに想像しているに過ぎません。
万事が全て同じです。
江戸時代は、子どもを「預けた」のです。
しかも25歳までと決まっていました。
その間、読み書き、躾、お茶、生け花、琴、三味線、社会常識、
花鳥風月の情緒教育等々一流女性としての教育を受けます。
さらに一番上の太夫になるには、思いやり等の「人間性の高さ」が決定的に重要でした。
このような女性としての最高の資質と知識教育を受けた女性たちは、非常に人気でした。
今で言う大手プロダクションのスターたちと言えます。
しかも教養も人間性など心の中味もトップクラスです。
だから25歳で卒業すると、ほとんどが武士の妻になっていったのです。
中には3000石の大名のお后になった花魁もいます。
フランスの一生涯人非人として蔑(さげす)まされた貧しい娼婦とは天国と地獄の差です。
だからゴッホは、娼婦であった妻とともに日本に行くことが生涯のかなわぬ夢だったのです。
ところが、明治維新以降は、悪しき西欧を見習ったお金第一主義の社会となりました。
文字どおり、貧しい家庭から少女を「買って」きたのです。
そこには、日本文化の自然との一体感の「情緒」は消え、
人をも商売のモノとして捉える「エゴ」しかありません。
江戸時代は人を「人間性の高さ」で評価していました。
ところが明治維新以降は、「お金」で判断するようになりました。
それがさらに劣化したのが、現代日本社会と言えるのではないでしょうか。
(*この紀行記の写真をアルバムに出します。併せてご笑覧ください。).






