2011年 1/15 一粒の麦
今回は、空手道月刊誌「JKFan」新春1月号に掲載された
連載「空手道と私」の第6回目をお届けします。
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一粒の麦
地に落ちて死すれば
豊かな実を結ばん
防大空手道は、中山空手道でもある。
私が防大に入学した頃は、先生は60歳でまさに空手道中興の祖として、
世界の中山主席師範であった。
その中山先生に8級から2段の審査まで直接指導して頂いた。
最後の昇段審査で抜塞の演武後、
「池田君、もう少し腰を落としたらもっと力強くなる」
という言葉が今でも耳に響いている。
それ以降、日々の鍛錬の巻きわら突きでは、重心を低くし、
後ろの支え足で地面を圧す反作用で拳の「極め」の力を得る稽古を続けてきた。
中山先生は、防大空手道部創部以来、
恵比寿の協会本部から横須賀まで毎週1回、
春と夏の合宿には全日いかなる地にも指導に来て頂いた。
防大生にとっては、
4年間直接中山先生の指導を受けるのは当たり前のようになっていたが、
今から思えばなんと破格のご指導をして頂いたのかと、
感謝の念でいっぱいになる。
他大学からは羨ましがられたはずである。
今となっては推測する他ないが、
中山先生の足跡をたどりながら、その「思い」を再現してみたい。
中山正敏先生は、大正2年(1913)4月6日、
真田家臣で代々信州松代藩の剣術指南だった中山家の長男として山口県で生まれた。
父親の直敏氏は、祖父の医師の血を引き継ぎ、
陸軍一等薬剤正(大佐)として各地を勤務。
その関係で中山先生は、小学校までは台湾で過ごしている。
武士、そして軍人医官の家に生まれたのである。
中山先生の弟義敏氏は陸軍士官学校51期で陸軍パイロット。
父自慢の弟さんだったが、満ソ国境付近の航空偵察中、
悪天候で国境を越え、還らぬ人となった。
先生もその無念の思いをじっと飲み込んで生きてきたと思われる。
父親は先生を医者にしたかったようだが、
「満蒙開拓講演会」を聴きに行ったのがきっかけとなり、
満州にあこがれるようになる。
そして遂に父親に黙って昭和7年(1932)拓大に入学。
「将来に備えて心身の基礎をつくるために剣道をやることにして道場に赴いた。
…ところが集団で赤ら顔の小さいお爺さんの号令で奇妙な踊りをやっていた…」
日本近代空手道創始者船越義珍先生、そして空手道との出会いである。
当時の稽古は、形と基本組み手のみで、
形を主体に50回、100回とへとへとになるまで行った。
基本組み手では、5本組手で力一杯腕をぶつけあったそうである。
突き、蹴り、受けの練習は規定の練習以外に自分でやるものとされ、
6尺有余の先輩に負けない強い突き、拳、腕を作るために
朝夕暇があれば巻きわらに正拳、裏拳、手刀、手棒を
200回、500回とぶつけたそうである。
昭和10年(1935)頃から自由一本が盛んになってきた。
また、追い込み五本組手の最後の段階で自由な攻防が行われるようになった。
これが自由組手に発展したが、船越義珍先生は、
「組み手偏重になるな」と叱責された。
当時の大学の交換稽古では、5本組手で最後には大乱戦、
半数が床にうずくまっていたそうである。
それでも爽快に「またやろう!」となったらしい。
私も防大時代、3年茶帯になったときに慶應大学との交換稽古に行ったが、
その時の約束一本組み手の中段追いつきで相手は黒帯だったが、
その受けをもろともせずみぞおちに極め、吹っ飛ばすように背中から倒した。
この時に、「基本」と「極め」重視の中山空手道に自信を持った。
さて拓殖大は、それまで欧米植民地として搾取されていたアジアで、
その開放と独立に「地の塩」として艇身する人材の育成を狙いに設立され、
中山先生もその精神を受け継ぎ、満州に夢を抱いていた。
本当に中国を愛し、戦争で日本が負けなければ中国に骨を埋めていたと思わる。
中山先生は昭和10年(1935)、中国語系学部2年時に、
単独満州国内蒙古ホロンバイル大平原の踏破旅行を行っている。
まさに命がけの大荒野の3カ月の旅である。
この時の体験が戦後の空手道をひろめる時に役立っている。
それはそれまでの空手道家のような個人の働きから、
「科学的に体系的に」ひろめるとともに、
「友人知己の協力を遠慮なく求める」姿勢である。
「1人でやっていたら空手道を世界にひろめる組織など、とうていなしえなかった」。
拓殖大卒業後、北京大東学舎に留学、陸軍の通訳として活躍。
この時代に日本代表の武術家として空手道を披露し喝采を浴びている。
昭和15年(1940)には華北政府委員会に入り、
内モンゴル自治区の僻地住民の民政改善などを担当している。
先生がよくたむろした場所に「抱一龕」がある。
「日本人も中国人も関係なく共存できる平和な国家を建設しよう」
と志を一つにした仲間が集まった場所である。
後年私邸の地下に作り、
防大拳冲会の活動の場ともなった道場名が「抱一龕道場」である。
「同じ目的をもつ人が民族や年齢に関係なく集まれる場所にしたい」
という熱き先生の思いが伝わる。
昭和18年の秋子夫人との結婚後も一緒に満州国の国造りに政府員として活躍、
20年には陸軍に招集されるも敗戦、志破れ帰国。
引き上げても当面やることがなく、拓殖大空手道部に毎日通い、
やがて空手道指導だけでなく、「中国文化」や「日本文化論」の教授にもなる。
造詣の深い先生の授業は人気だった。
そして昭和23年(1948)、
船越義珍先生を最高師範とする「日本空手協会」が設立され
関東の大学を中心とした本格的な空手道の普及が始まる。
また米軍への指導が開始される。
米軍人にはそれまでの体験的指導は通じず、
先生独自の「科学的かつ体系的な中山空手道」へと進化した。
そして昭和29年(1954)、保安大学校で演武会を催し、
槇校長等の心胆を寒からしめるとともに大絶賛を受け、
即、防大の師範に就任する。
中山先生この時41歳。
中山先生と共に岡崎、森、金澤先生等の錚々たる指導者が極めて熱心に指導された。
また大人数の防大空手道部を指導する中で、
多くの人間に対する指導のあり方が体験的に進化していったと思われる。
思うに、若き頃全生涯を建国間もない満州国に捧げるつもりが、
夢やぶれて帰国した。
敗戦被占領中の日本は、独立前の満州国と同じである。
米軍人などに教えながら、新生日本の独立を待っていたと思われる。
亡き陸士出身の弟の無念の思いもある。
もとより代々真田家の剣術指南の血も流れている。
新国軍の骨幹である保安大(のち防衛大=士官学校)学生に、
日本武士としての魂を注ぎ込みたかったのではないだろうか。
実は私の父も中山先生と同じ大正2年生まれである。
20歳から海軍の道を選んだ。
南方で夢破れ、帰国。
私が防大に入ったことがその夢の続きを叶えることにもなった。
奇しくも、父と同じ歳の中山先生とその防大で空手道を習うことになった。
まさしく人生は意味ある共時性の連続で、引き継がれてゆく。
一粒の麦
地に落ちて死すれば
豊かな実を結ばん
その防大における具体的な指導については、
次回中山先生ご自身の文章を紹介しつつ説明したい。
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東藝術倶楽部 顧問
船井幸雄.comコラム「21世紀ヤマトごころの部屋」
「マインドコントロール」(ビジネス社)
「転生会議」(ビジネス社)
「心の旅路」(新風舎)(新日本文芸社:改訂版)
メルマガ:心のビタミン(エッセー)
最新アルバム「整治」
「マインドコントロールを超えて、大和ごころに回帰せよ!」
池田整治氏インタビュー1/2「21世紀の武士道とは?」
http://www.youtube.com/watch?v=trD5QVMX33s (前段)
http://www.youtube.com/watch?v=irCkGefXtZs (後段)
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