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2010年 9/24 逆境こそ成長の肥やし

空手道月刊誌「JKFan」11号に
「私と空手道」の連載2回目が掲載されました。

今回は、見開きの2ページに、
私の撮った写真も4枚載りました。

そのうちの「おとぎの国の夕陽」は、
日本一の夕陽でグランプリ賞をいただいたものです。

実は、主催者側がネガを無くしてしまって、
もう二度と現像できない幻の作品です。

是非、ご笑覧ください^^

なお、写真HPがなぜか開けなくなっておりましたが、
「最新アルバム」逐次、写真を入れ替えております。
今、2002年の北海道の写真まで完了しました。
全部を入れるのは、しばらくお待ちください。

今回の4枚の写真も、これまでどおり、この写真HPに
エッセイと同じタイトルのアルバムで出しております。


[連載]
私 と 空 手 道  第2回 

        逆境こそ成長の肥やし

 中学卒業後、四国最遠端の一本松町からバスで出発したが、
この時のシーンも生涯忘れることができない。

同級生や野球のファン!?など約30人に、
船の出港のようにテープを引いて盛大に見送ってもらった。

田舎には従兄弟が50人以上いたが、彼らの親戚などから餞別も頂いている。
まるで出征兵士として見送られているようで、考えようによれば、
おめおめと郷里にかえるわけにはいかない。

ちなみにその田舎に数年後帰省したときには、
町の入口に「南海フォークスの若き鷹・藤田学出身の町」と
いう大きな看板が立っていた。

 実は、野球から空手道に変えた苦々しい思い出がある。
野球しか遊びのないような野球発祥の地・愛媛の片田舎で、
中学3年生になると生徒会の会長・副会長、クラス委員長などがレギュラーとなり、
県大会以上を目指していた。

のちドラフト1位で南海に入り、
13勝あげて新人王となった藤田学君が投手で7番、私がサードで4番だった。
 

    僕たちは野球に命を賭けていた

 その「事件」は郡大会直前に起こった。
当時男子は「技術家庭」、女子は「家庭保健」という科目が週1あった。

その家庭保健の先生が、わが野球部の監督で、専門は陸上だった。
翌日から大会が始まるという授業で、
3年生女子全員の前で「中学野球は高校野球の予備校」と放言したのである。

女子から伝えられたこの言葉を聞いた時は、ショックだった。
3年レギュラーがグランドの片隅に集まり、退部届をだそう、とまで深刻に話した。

結局試合には出たが、とってつけたような守備位置の変更などもあり、
沈んだ気持ちのままの初戦に1点差で敗れた。

唯一の得点は私のセンターオーバーの三塁打だったが、
足取りも重く、三塁で自主的に止まった。

当時地元の高校監督から進学を期待されていたレギュラーは、
藤田君を除き、全員私と同じように中学卒業とともに田舎を去った。

私も、こんな哀しい思いをした野球は二度とやめよう、
と心に誓って、少年工科学校を選んだわけである。

その監督は、当時の我々の思いをいまだ知らない。
この経験から私は指導者の心構えを一つ学んだ。

それは、小・中・高どんな段階であろうと、
子供たちは、その時、その時に、人生の全てを賭して臨んでいる。

だから指導者は心から子供たちにシンクロすることである。
過去は過ぎた思い出、未来はまだ来ぬ憂い、人は「今」「ここに」しか生きてない。

子供たちにとっては、今この時の練習、試合そして大会が、
全生涯をかけた戦いなのである。
大人、指導者も同じ心で臨むことだ。

こういう思いを抱いて大都会・横須賀の陸上自衛隊少年工科学校に入ったが、
とんでもない「逆境」を選んだことに気がつくまで日数はさほどかからなかった。

当時は米ソ二極対立の真っ最中である。
赤の帝国「ソ連・中国・北朝鮮連合」の膨張を阻止する
「自由諸国連合」の最前線として日本列島が位置していたのである。

朝鮮戦争も、国連軍の兵站基地としての日本があったからこそ、
最終的に38度線を侵略した共産軍を追い返して韓国の独立を保つことができた。


15、16、17と私の人生暗かった♪

同じ日本人でも共産主義を望む人々にとって、自衛隊こそ最大の敵であった。
自衛隊の弱体化あるいは国民と自衛官との乖離を狙いとした
積極的な活動が行われていた。

その真っ只中に、田舎の野球少年が立たされたわけである。
確かに3等陸士という階級と自衛官の制服を着ているが、
中身はホームシックにかかった15歳の少年である。

土日には、学校(武山駐屯地)がデモ隊に取り囲まれ外出もできない時がある。
特に初めて制服で外出した際、ワンマンバスでまごついている私に、
運転手から「税金泥棒!」と罵られた時は、大ショックだった。

その日は、消灯後、ベットで毛布を頭まで被って声を出さないで泣いた。
静まりかえった中、哀調の消灯ラッパに耳を澄ませば、
隣のベットからも嗚咽が聞こえてきた。

当時藤圭子の歌に「15、16、17と私の人生暗かった~」
という歌詞があったが、まさに我々のための歌と感じた。

こういう環境の中で、唯一心楽しませてくれたのが、やめるはずの野球だった。
気持ちは刑務所の塀の中のような生活で、
他に生きがいを見出すことなどできなかったのだ。

しかしその野球さえも、軟式野球で、定時制・通信制大会しか出場できない。
しかも大会に出ても、母校「少年工科学校」は一切名乗れない。

少年工科学校の先生から学んでいるにも関わらず、
制度上通信制なので、「湘南高校」としか名乗れない。

まさに日蔭者あつかいである。
同じ野球なら母校の名を背負って、甲子園を目指して堂々とやりたかった。
人生、二度とやり返しはできないのだから。

こういう境遇の中、入学した約530名のうち、
卒業後も自衛隊に残った者は300名を切っていた。

 人生には、さまざまな逆境や試練がある。
その中でも最大の哀しみは、
自分の存在そのものを社会的に否定されることではないだろうか。

生まれたときから、
一人しかいない母親に「お前は生まれてこないほうがよかった…」
と言われて育った子供はどうなるだろう…? 
当時の自衛隊を取り巻く環境だ。

 15歳の子供の我々にとっては、この逆境はあまりも大きかった。

ただ、その逆境さえ乗り越えることができれば、
得られる心の果実も大きいには違いない。

もっともそれさえも、のちに成功してから言える言葉かも知れない。

 田舎に帰りたくとも、盛大に見送られて出ているので帰れない。
そういう逆境の中で、子供心にも、「名案」が浮かんだ。

それは、小さいときからの「思い」がこの境遇の中で蘇ったのである。
その思いとは…(以下次号に続く)

【PROFILE】
 池田整治
 Seiji Ikeda

 全空連理事。全日本実業団空手道連盟理事長。全自衛隊8段。
 
 ・陸上自衛隊第49普通科連隊長を経て、現在、陸上自衛隊小平学校で
 人事教育部長/1等陸佐。阪神淡路大震災での救護活動や、2000年の
 有珠山噴火では自衛隊の幹部として救護活動に従事した。
 95年の地下鉄サリン事件では、その直後の上九一色村強制捜査に、
 自衛官として唯一、突入。
 
 ・1955年3月22日、愛媛県生まれ。小・中学校時代は野球少年で、
 高校でも野球をやりたいという夢があったが、農家の二男ということもあり、
 高校に行くなら農業科ということで、普通科に行くという選択肢はなかった。

 高校進学で悩んでいる折、隣の町に横須賀の“陸上自衛隊少年工科学校”
に学ぶ人から話を聞く機会があり、少年工科学校に興味を持つ。

農業を営む池田氏の父は、元海軍の軍人で、義に生きる人であった。
その父の影響で、少しでも国のためになるのではないかと思い、
陸上自衛隊少年工科学校に入校。

しかし、池田氏が入学した昭和45(1970)年頃は、
米・ソの二極対立の冷戦時代。

自衛隊の存在が軍国主義、帝国主義につながるとの声が強く
自衛隊不要論が声高に叫ばれる時代だった。

そのような折、初めて乗ったワンマンバスでバス乗り方が分らずにいると、
運転手に「税金泥棒!」となじられ、15歳の少年にとっては、
自分の存在を否定されたようなショックだったいう。

以来、同校で学ぶことが苦痛となる。
田舎に帰りたいが、帰ってどうするという当てもなく悶々としていたが、
防衛大学に入り大学卒の資格を取り、松山市で公務員になろうと考え直し、
みごと防衛大学に進学。

それまで野球少年だった氏が、
「万が一の時は自分一人で対処できるだけの力を持っていたい」と考え、
当時防衛大学の数あるクラブの中で一番きびしい空手部に入部を決心。

ここで、同校空手道部を指導する中山正敏先生に出会い、薫陶を受けることとなった。

日本人の本来の姿は、究極の“誠の道”すなわち武士道の精神そのものだ、
との考えの下、空手道の普及に努める。

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「マインドコントロール」(ビジネス社)
「心の旅路」(新風舎)
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