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2010年 10/31 思いは実現する

空手道マガジン「JKFan」11月号に連載3回目が掲載されました。
ご笑覧ください。

なお、写真HPには、同じタイトルで、写メールで撮った
10月の日々の花等の写真を掲載しました。

連載に載った少年工科学校入校時の懐かしい
凛々しい・・かわいい!?^^;写真もあります。

あわせてご笑覧ください。

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         思いは実現する

   さらに追い打ちをかけた航空機事故

 社会的に抑圧された暗い生活を始めて2年目に、
さらに追い打ちをかけるような大事故が起こった。

“雫石全日空墜落事故(1971年)”である。

当初、空自戦闘機が全日空機に「追突」したとされ、
空幕長が何ら事故原因を聞かないまま、
広報上の考慮もなくただちに「謝罪記者会見」を行ってしまったこともあり、
自衛隊がマスコミから強烈に叩かれた。

今でも自衛隊機が追突したと大半の人が勘違いしているだろう。
実際は、最大速度時速850kmの自衛隊機が
二機で様々な蛇行飛行訓練をしているところに、
時速900kmの全日空機が定期航空路を
12キロもずれて空自の訓練空域を「直進」して、
後ろから接触したのである。

全日空パイロットは、
「前方監視」していなかったこともわかった。

もっともこの事実が明らかになったのは、10年後の第二審の時で、
それを証明したのが、防大空手道部の5期(16年先輩)で、
退官まで防大空手道部の部長もされた電気工学教授の安岡先輩である。

ちなみに最高裁では、
様々な「考慮」から「双方」監視不十分の裁決をした。

 いずれにせよこの大事故により、
国民の自衛隊への大反発が当時16歳のわれわれの心に、
暗く重くのしかかってきた。

夏休み直前であり、
帰省前に学級担任である区隊長が様々な注意事項を話された。

内容はすっかり忘れたが、
真剣さと悲壮さが混じった区隊長の表情だけが今は記憶として残っている。

今思えば仕事上も必死だったと思う。
帰省ごとに未帰校者、つまり中途退学者が増えていたのであるから…。


   潜在意識からのプレゼント「ひらめき」

 2年目の夏休み帰省時は、雫石事故もあり、
精神的にもかなり圧迫されていたのだと思う。

20時間近い新幹線~本州・四国連絡船~予讃線~バスの旅の最後に、
約2kmの田舎道を歩き、
三叉路を右折して田んぼの中をあと400mも直進すれば実家に到着、
というところで突然に頭の後ろから「そのシーン」が蘇ってきた。


それは、小学1、2年生の春の節句の時だったと思う。
兄やその友人たちに連れられ、家から田んぼ越しに正面に見える、
さきほどの曲がった三叉路を逆に左に進む、
標高200mほどの山の頂上に登った時のことである。

獣道さえなくなっている荒れた山の頂上に背丈もないほどの小さな祠があった。

私は思わずその祠に両手で合掌して、
「防衛大学に入りますように…」と真剣に心で祈ったのである。

父は戦争のことは一切口にしなかったが、
リビングに置いてあった連合艦隊司令・山本五十六元帥から
艦隊対抗演習の副賞でもらった戦艦妙高入りの楯などを見ながら育ったので、
小さいときから海軍にあこがれていたのかもしれない。

ただ、その祈ったことさえ全く忘れていた。
それがこの究極の帰省時に、潜在意識からのプレゼントとして、
「ひらめき」として顕在意識に送り出してくれたのである。

「防衛大学校に入って、大学卒の資格を取り、
松山市役所の職員になって堂々と田舎に帰ろう!」というものである。

まさに心の奥からこの「思い」が忽然と浮かんだのである。


    帰省で過去の自分と対話する

 物語から少し離れるが、
  帰省と「ひらめき」についてもう少し書いておきたい。

家を出て3年目の晩夏に実家である愛媛の農家の跡取りに
「急遽」なってしまったため(顛末は後半に)、
盆・正月、可能なときは五月の連休も、母が亡き父のもとに旅立つまで、
毎年帰省するようになった。

この定期的な「帰省」が、心の成長に極めて効果的だったと実感している。

 なぜなら帰省すれば、現在の自分の状況に関わりなく、
一気に田舎時代の自分の生活の「場」に帰ることになる。

自分が生きていた場には、
自分の過去の物語が「波動」として未来永劫残っている。

いやが上でもそれと対面する。
これは、まさに「瞑想」そのものである。

座って行う瞑想は、様々な雑念で集中できないが、
帰省は否応なく100%過去の自分を見つめることができる。

 私は様々な瞑想を行ってきたが、
過去のトラウマを取る瞑想が
「今」・「ここで」やるべきことに最も集中させるのに有効だと思う。

そのためには、潜在意識に隠れ、
今の自分の思考・行動にブレーキをかけている過去の
「いやな場面」を顕在意識まで上げて自覚しなければならない。

これが結構、言うは易く行うは難し、である。
ところが帰省はこれを物理的に簡単に行ってくれる。

過去の自分と対面したときに、
今の自分の行動の原点を知ることができる。

それがマイナスのものならトラウマであり、
その意味を再認識した時点で解消し潜在意識に存在しなくなり、
心が過去から解放される。

過去が変わるのである。

それが「願望」「夢」であった場合、
かっての「祈り」が叶う「瑞光」となる。


     やるべきことを実行するのみ

 話を戻そう。
「防衛大学校に入る」という「ひらめき」が与えられた。こうなると、
あとは父の教えの「先んずれば人を制す」の実行あるのみ。

 入校当初は毛布で被って泣いていたベットで、
明かりを外に出さないように毛布を被って懐中電灯で受験勉強した。

さらに皆が寝静まると、こっそりベットを抜け出し、
常夜灯のあるトイレで勉強を続けた。

洋式トイレなどないので、そのうち自習室からこっそりイスを持ち込んで、
冬はさらに毛布にくるまって勉強した。

 少年工科学校のカリキュラムは、技術陸曹の養成のためのものなので、
工学系の高校の課目に似ている。

4年間学ぶと卒業時に、湘南高校の定時制・通信制の卒業証書もあわせもらえる。
ただ、英語は就職用のAである。

自衛官としての課目や射撃訓練、富士野営訓練もある。
夜は自習時間があるが、当初は10時には消灯であった。

あきらかに受験戦争には乗り遅れる。
そこで急遽、懐中電灯での勉強を行ったわけである。

また、当時難しい問題で有名だった「Z」という
通信添削問題などを積極的に行った。

昼間の野球と深夜の懐中電灯勉強で、
つい昼間の授業中に居眠りすることもあった。

後のエピソードとして、英語の先生が居眠りしている私に質問したところ、
いつも正解を言うので、内心驚いていたとうかがった。

夜、進んだ受験用の英語を勉強していたので、
当然と言えば当然であったのだ。

 やがて防大を目指していることが知れ渡ると、
同級生も教官もみな応援してくれ、様々な便宜も図ってくれた。

これには本当に今でも感謝している。

 3年になると、「防大入学資格検定」、
いわゆる大検の道が作られ、27名が合格。

このうち3名が防大受験に合格した。
それ故、いまだ文部省資格から見れば、私の履歴書は、「高校中退」である。
 
 3年夏には、セカンド・2番として軟式野球神宮全国大会に出場。
20打数10安打、5本の二塁打と5個の盗塁、
とチャンスメーカーの役割を果たして全国2連覇。

「さあ、あと50日で防大受験だ!」と、帰省せず学校に残って勉強していると、
突然田舎の実家から父と姉が訪ねてきた。

 農家を継いでいた兄夫婦がどうしても他の事業を行いたいということで、
姉と私、どちらが農家を継ぐかということの相談であった。

私は、即座に「女は嫁にいって幸せをつくるもの、
家は自分が継ぐから安心して欲しい」と告げた。

「ただし、合格すれば、防大の4年を終えて帰省する」と父に約束した。
まさに「防大卒の資格をとって田舎に帰る」条件がそろったのである。

 この日以降、ベットで寝るのはやめた。
自習室の机で眠くなったらそのまま伏して寝る。

体力の続く限り受験勉強に集中した。
 
 こうして同期二人とともに防衛大学校に入学した。
そして「卒業後に帰省する」という「心構え」が、
その後の学生生活、あるいは生き様にとって、
空手道の師・故中山正敏主席師範との出会いとともに、
とてもプラスになった…
(なぜか? それは次号に)

プロフィール

池田整治(いけだ・せいじ)

全空連理事。全日本実業団空手道連盟理事長。全空連空手道七段。

陸上自衛隊第49普通科連隊長を経て、現在、陸上自衛隊小平学校にて、
人事教育部長/1等陸佐。阪神淡路大震災での救護活動や、
2000年の有珠山噴火では自衛隊の幹部として救護活動に従事した。

95年の地下鉄サリン事件では、その直後の上九一色村強制捜査に、
自衛官として唯一、突入。

1955年3月22日、愛媛県生まれ。
小・中学校時代は野球少年で、高校でも野球をやりたいという夢があったが、
農家の次男ということもあり、高校に行くなら農業科ということで、
普通科に行くという選択肢はなかった。

 高校進学で悩んでいる折、隣の町に
横須賀の“陸上自衛隊少年工科学校”に学ぶ人から話を聞く機会があり、
少年工科学校に興味を持つ。

農業を営む池田氏の父は、元海軍の軍人で、義に生きる人であった。
その父の影響で、少しでも国のためになるのではないかと思い、
陸上自衛隊少年工科学校に入校。

しかし、池田氏が入学した昭和45(1970)年頃は、
米・ソの二極対立の冷戦時代。

自衛隊の存在が軍国主義、帝国主義につながるとの声が強く
自衛隊不要論が声高に叫ばれる時代だった。

そのような折、初めて乗ったワンマンバスでバス乗り方が分らずにいると、
運転手に「税金泥棒!」となじられ、15歳の少年にとっては、
自分の存在を否定されたようなショックだったいう。

以来、同校で学ぶことが苦痛となる。
田舎に帰りたいが、帰ってどうするという当てもなく悶々としていたが、
防衛大学に入り大学卒の資格を取り、松山市で公務員になろうと考え直し、
みごと防衛大学に進学。

それまで野球少年だった氏が、
「万が一の時は自分一人で対処できるだけの力を持っていたい」と考え、
当時防衛大学の数あるクラブの中で一番きびしい空手部に入部を決心。

ここで、同校空手道部を指導する中山正敏先生に出会い、
薫陶を受けることとなった。

日本人の本来の姿は、
究極の“誠の道”すなわち武士道の精神そのものだ、
との考えの下、空手道の普及に努める。


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「マインドコントロール」(ビジネス社)
「心の旅路」(新風舎)
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