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2009年 12/7 世界でもっとも短い慟哭の詩(うた)…「日本を知る会」メルマガより

世界でもっとも短い慟哭の詩(うた)
        ……「日本を知る会」メルマガより

 「日本を知る会」という勉強会をご存じだろうか。
 
 日本伝統文化の和道具・漆器の製造販売をしている小林寶林堂(ほうりんどう)の
代表取締役でもある國分孝一氏が主宰されている、
講演を主体とする素晴らしい勉強会である。

 実はこの2月、その第5回特別勉強会で私も講演させて頂いていた。

 それ以来、國分代表の日本を思う心と行動力、
そして温和な人間性に感銘を受け、親しくおつきあいさせていただいている。

國分氏は、間違いなく船井幸雄会長のいわれる、
危機的な現代社会を本来の日本的共生の素晴らしい世の中に次元上昇させる
「有意な人」の代表格の一人であろう。


 同会のHPから目的等を抜粋してみよう。

 「日本を知る会の目的」…日本を良くし世界から尊敬される国となり、
             世界平和の要となり、美しい地球を未来へつなげて行く事
 
 「発信内容」…日本の良い歴史、伝統文化を中心に、日本人の精神性、武士道、
        倫理観、宗教観や、日本の自然や気候風土も含め、
        日本の良さを発信していく

 「発信対象」…主に、若者、学生、教師、女性など、将来に、
        そして家庭の中で重要な役割を持つ人たちを中心に経営者や
        リーダーを含め、広く多くの人に発信

  (日本を知る会HP  http://日本を知る会.jp/index.php?FrontPage)

 その日本を知る会から週に一度、感動のエピソードがメルマガで送られてくる。

その中で、特に数回に分けて配信された「パラオ共和国に関する史実」に
感動の涙を流した。

今回國分代表の許可を得て、そのパラオの記事を私なりに一つにまとめ、
心のビタミンでも発信することにした。

是非、ゆっくり味わって読んでほしい。

****************************

    ~~ サクラ・サクラ ~~

日本の真南3000キロ、北緯7度30分の太平洋上、
約300の島からなるパラオ共和国は、1543年スペインが発見して植民地とし、
その後1899年にドイツが買収していた。

 第一次世界大戦時に、日本は日英同盟に基づき連合国側として
ドイツに宣戦布告して参戦、南洋諸島(マリアナ諸島とカロリン諸島)を
攻略、制圧した。

 そして、大戦の戦後処理をしたパリ講和会議によって、
パラオを含む南洋諸島は日本の委任統治領となり、
1914年(大正3年)から1945年(昭和20年)まで日本の施政下にあった。

 この委任統治時代に日本は、パラオ諸島のコロール島に南洋庁を置き、
  
  ・サトウキビ
  ・パイナップル
  ・稲作

などを持ち込み、缶詰やビール工場を作り雇用を創出すると共に、
道路の舗装、橋や病院などの近代的建物の建設、
電話を引くなどのインフラ整備を積極的におこなった。

 また、全住民に数種類の疫病に対する予防接種を受けさせ、
さらに公立学校を作り日本の子供たちと同じような教育を
全島の子供たちに受けさせた。

 この結果、パラオの人口は2万人から5万人に増え、
同国に未曾有の経済的発展をもたらした。

また、こうした統治政策により、
パラオは原初的な自給自足経済から市場経済へ変わり、
財産の所有権も氏族から個人の手に移り、
近代社会の基盤ができた。


 400年におよぶいわゆる植民地の歴史の中で、
約30年間に過ぎないこの日本統治時代が「一番良かった」と、
今も現地の人たちが回顧しているパラオ共和国は、
世界一の親日国家でもある。

 もっともパラオのみならず、台湾、朝鮮半島、満州、南洋諸島など
日本が戦前に統治したすべての地域において、
このように「内地」の日本と同じ社会基盤を築くことに、
なんと日本の国家予算の三分の一が「贈与」された。

本来の欧米の植民地、つまり現地からの資源「搾取」とは、
その様相が全く逆だったわけである。

 
そのパラオで語り継がれている話がある。
 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。

 「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」

沖に浮かぶ島を指差しながら老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。

老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

 やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

仲間達と話し合った彼は、代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。

「自分達も一緒に戦わせて欲しい」

              と伝えに。

しかしそれを聞くなり隊長は激高し叫んだという

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに…
みせかけだったのか…
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…

船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。

先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。

老人が指差す沖に浮かぶ島こと、
パラオ諸島の島の1つペリリュー島に1944年(昭和19年)9月15日、
ついにアメリカ艦隊がやって来た。


ぺリリュー島守備隊の数、約1万2千名

   対するアメリカ軍
    兵 力  14倍
    航空機 200倍、
    戦 車 100倍、
    火 砲1000倍

アメリカ軍が2、3日で陥落できると考えていたこの戦いは、
日本軍のゲリラ戦による激しい抵抗で、
最精強の米軍第1海兵師団が60パーセントを超える損失を与えられ、
陸軍第81師団に交代する程の激戦となった。

(海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病したという。)

しかし、制空・海権を奪われ補給を受けられない孤立無援の日本軍は、
アメリカ軍の圧倒的な物量の前にしだいに追い詰められ、
兵力・弾薬も、食糧・水もほとんど底を尽き、
11月24日、司令部は玉砕を決定。

 地区隊長中川州男大佐(歩兵第2連隊長)
 村井権治郎少将(第14師団参謀)、
 飯田義栄中佐(歩兵第15連隊第2大隊長)

が割腹自決した翌朝にかけて、
根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による最期の「万歳突撃」が行われた。

こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、
11月27日ついに米軍はペリリュー島の占領を果たすこととなる。

   死者
    日本軍  10695名
    アメリカ軍 2336名
   捕虜
    日本軍   202名
    アメリカ軍 - 
   生存者
    日本軍     34名
    アメリカ軍 8450名

   一般人の死傷者
    ※日本軍が全員退避させていたので

       0(ゼロ)  であった。

24日の16時、パラオ本部に届いた最後の電文

「サクラ・サクラ」

この詩は、一万人有余名の兵の死をもって謳いあげた
世界で最も短かく簡潔な詩と言われている。


 なお、太平洋戦争を通じ、2万数千名の南洋諸島の若者たちが
「お世話になった日本のために」ともに戦い、
尊い命を捧げたことも忘れないでほしい。

彼らの御魂(みたま)はともに戦った日本兵と同じく、
全員九段の靖国神社に今も祀られている…


       ・・・そして戦後・・・

「諸国から訪れる旅人達よ 
 この島を守るために日本軍人が
  いかに勇敢な愛国心をもって戦い
    そして玉砕したかを伝えられよ」

戦後再建されたペリリュー神社の境内に建立された詩碑に刻まれているこの詩は、
アメリカ大平洋艦隊司令長官・ミニッツ海軍元帥が
ペリリュー島で玉砕した日本兵に感銘して作った詩である。

日本軍玉砕後、島に戻って来たパラオの人達が見たのは、
焦土と化した島に放置されているおびただしい数の日本兵の遺体だった。

 一緒に汗水流して働いた日本人……
 一緒に歌を歌った日本人……

パラオの人達は、泣きながら日本兵の遺体を埋葬し墓地を作ってくれた。

この墓地は、島民の手によって今でも整然と維持され、
英霊達の遺徳は讃えられている。

日本から遺骨収集に行くと、

「戦死者は母なる大地ペリリューに抱かれているのだ。
       収集などしないで静かに眠らせてほしい」

                と島民から言われるそうだ。


 そして終戦後、アメリカの信託統治が始まるが、
彼等がまず最初にやった事は、
日本がパラオに残した物を全て破壊する事であった。

畑は掘り返され、発電所を壊し、道路の舗装を剥がされ、
校庭の二宮金次郎の銅像は引きずり降ろされた。

毎朝、集まった村人達が日本海軍岡田中将から

「この美しいパラオを一日も早く自分たちの手で治めるようにせよ」

と訓示を受けた思い出の場所、南洋神社も……
日本の存在を全て消しさるために……

 そして、徹底的な反日教育を行なった。

歴史の授業では、アメリカで作られた教科書を使い、
日本人による「パラオ人虐殺事件」があったとも記載し広めようとしたが、
パラオの年長者が「そんな話はない」とにべもなく否定したため、
この話はパラオで浸透することはなかった。

アメリカによる信託統治の時代でも、
パラオの人達は、パラオのために尽くしてくれた日本人の事を決して忘れなかった。


 1994年、パラオはアメリカから独立。

その独立式典でパラオ国歌斉唱の後に流れてきたのは、
日本の国歌『 君が代 』であった。

8割の人が姓名のどちらかに日本の名前をつけると言われているこの国は、
捕鯨問題や小泉首相の靖国参拝の時にも味方になってくれた。

パラオの長老達は、今でも日本の事をこう呼んでいる。

「内地」と……

「日本人は厳しかった。
 しかし、我々に農業と、まじめに働くこと、
  そしてウソをつかないことを教えてくれた。」


          ~~ 青い海に浮かぶ月 ~~

 1979年、そのパラオが自立するにあたって
国旗を決めるためのコンテストを行い、70点の応募作品が集まった。

そしてその中から選ばれたのは、
明るい青の背景に、中央やや旗竿よりに黄金色の円を配したデザイン……

 何かに似ていると想いませんか?

 この背景を白地、円の色を赤に置き変えると、
 そうです!
 「日本」 
 の国旗に似たデザインになるのです。

 これには、次のようなエピソードがあった。

「私達は国旗の選定に相当苦労した。応募者はあまねく各島の人々であり、
 それぞれの旗にパラオの歴史と伝統がこめられていた。

 だから選考委員は真剣であった。選考には日数をかけた。
 でも、最終的にこの旗に決めたのは、日本の旗に一番似ていたので
 最大の人気が集まったからである。

 日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現す。周囲の青地は海を意味する。
 月は太陽が出ないと輝くことができない。

 つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つ。
 太陽とは日本のことである。海に囲まれたパラオという国は、
 日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。

 我々はまだ、戦争中に日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した
 日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。

  一万に及ぶ英霊達は私達に、勇気と国を想う心があれば、
      アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである。」
 

国旗の月が中央から少しずれているのは、
日本に失礼だからわざと中心をはずしたとも、
旗がなびいた時にバランス良く見えるように旗竿側に寄せているからだ、
ともいわれている。

ここまでパラオの人が愛してくれた日本。

にもかかわらず、果たして我々日本人自身はどうだろうか?

******************************

 1995年、かって中国の紫陽元首相は、オーストラリア訪問時の首相対談で、
「その国を滅ぼすには、歴史をなくせばいい」と、
日本を念頭において言い放った。

 まさに戦後の日本は、GHQ等により歴史なき浮き草状態になり、
社会は乱れる一方である。

今回発信した「史実」は、日本の歴史の真実の氷山の一角である。

私は、7年間南方で勤務し最後はシンガポールで英国軍と
武器引き渡しの交渉をした父からこのような日本軍の「真実」を
よく聞いたものだが、学校教育では全く逆のことを学んだ。


人も自らを好きでない人は、
他人(ひと)を本当に愛することはできない。

自国を誇れない人に、真の国際人はいない。


歴史の大転換期の渦中で、
いにしえよりありとあらゆるヒトと自然と共生し、
和ももって尊んできた日本人としての矜持(自信と誇り)を取り戻すには、
先ず正しい歴史の事実を知ることであろう。

これを契機に、是非自分で「歴史の真実」を学んでしてほしい。

「知らないことを知る」ことこそ、
今生の課題である魂を成長させる本当の勉強である。

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・・・・アルバムに「世界でもっとも短い慟哭の詩そして小平の晩秋」として、
    パラオ共和国の国旗、小平の12月初旬の去りゆく秋の風景など
    約50枚を載せました。


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「マインドコントロール」(ビジネス社)
「心の旅路」(新風舎)
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