池田整治のメルマガ・心のビタミン
読者購読規約
powered by まぐまぐトップページへ
 

2009年 11/10 中津峡、峠の初雪…その二

中津峡を八分ぐらいまで進むと、
甲斐・上野・武蔵を意味する「三国峠」に抜ける道との三叉路がある。

つまりここで中津川は、左の三国峠方向と、
右の小倉沢方向の二つの支流に分かれる。

地図では左の三国峠方向を中津川としている。
こちらは彩の国ふれあいの森やキャンプ場などもあり、
清流を身近に味わうことができる。

5年前はこちらの方向に進み、車で行けるところまでいって撮影した。
その峠近くの麓の小さな家に夫婦二人だけが住んでいるのに驚いたものだった。
果たして今も住まれているだろうか?


 今回は、この三叉路を右折して、すぐに小さなトンネルを抜け、
神流川沿いに小倉沢の山道を登った。

山道と言っても、れっきとした県道210号であるが…。
谷間のジープ道を対向する車と譲り合いながら離合しつつ登っていると、
秩父鉱山、つまり日窒(ニッチツ)鉱山の廃墟街に出た。

 
 遙かいにしえの頃、二つの島がぶつかって列島の原型が形成された。
その境目が中央構造線である。

1000万年~1500万年前の激しい造山活動期に、
その裂け目にマグマが貫入して秩父山地や三河山地が形成された。

その後、気の遠くなるような長い年月の浸食作用で貫入した基部が残り、
複雑な深い渓谷を形成するとともに、
豊かな鉱物群が世に出るのを待っていた…。


 秩父鉱山は、戦国時代に甲斐武田氏が採掘したのが始まりとされ、
江戸期には平賀源内も金を求めて入山している。

 1937年には、ニッチツが買収し、大規模に採掘を始め、
金・銀・銅・鉛・亜鉛・鉄が採掘された。

最盛期には、標高860mの山中にもかかわらず、
2000人を越える人口を誇り、
共同浴場・社宅・病院・学校・商店・簡易郵便局もあった。

しなしながら採算が合わなくなり、
1978年には金属採掘をやめ、
今では石灰のみ採掘している。

このため徐々に鉱山街から人が去り、
2006年9月には無人街となった。

主のいなくなった町並みは、徐々に自然に帰っている。

 ただ、郵政民営化に際しても、
この簡易郵便局は廃止にならなかった。

というのもまだ一人、
ニッチツのOBの方がこの廃墟となった町に住んでいるとのことだ。


 その廃墟の町並みをすぎ、さらに登る。
びっくりしたのは、10人ほどのサイクリングのグループが、
この急峻な峠道を車に負けじと登っている。

やがて、標高1723mの両神山と諏訪山を結ぶ稜線である
八丁峠の真下を抜ける八丁トンネルの入り口まできた。

ついに荒川の一つの源流の出発点まで来たわけだ。
ここまで来ると雨でも降らない限り表面に水は流れていない。

トンネルの幅は車1台分。離合はできない。
ちょっとためらったが、前の車が入ったので、続けて入る。

 そしてトンネルを出ると、
目の前に群馬県と埼玉県の県境である
二子山などの稜線の雄大な景色が広がった。

トンネル左脇の駐車場で撮影することにして、止めてビックリ。
なんと日陰のところに雪が積もっている。

しかも車から降りてみると、舗装がブラックアイスバーン状になっていて、
足もとが滑るではないか。

それ以上の無理な走行はやめて、ここを今回の終着点とし、
食事後引き返すことにする。

 それにしてもまさかこの時期に、
埼玉県で雪と紅葉を一緒に撮れるとは思わなかった。

山頂付近の東斜面の日陰に残る雪と、
その上の陽射しがさして雪が解け最後に残る黄色い紅葉と、
さらにその上の秋の青い空を一つの構図にまとめて何枚か撮影する。

 車から降りた子どもが雪の感触を楽しんでいる。
やがて追い抜いたサイクリングツアーグループも追いついてくる。

聞けば一日100kmぐらい走るとのこと。
かっての私ならここに車を置いて、
群馬と埼玉の県境の山々の稜線を縦走するところだが…。

今回は何の準備もしてない。
 

ゆっくり遠くの山並みを楽しみながら感慨にふけり、
妻のつくってくれたおにぎりを頬張る。

おいしい^^。

 
やがて、来た道を引き返し、
心に感じる場所に車を止めて撮影しながら帰路につく。

中津峡での、5年前のような落日の瞬間の最後のワンショットは、
今回は撮る気がしなかった。
 
 太陽の位置関係から、落日に最高のショットにならないと判断するとともに、
半分自然がなくなった中津峡からなんとなく早く出たかった。

それに、妻に「遅くならないうちに帰るでしょ?」、
と釘を刺されていた。


 実は、廃墟になった鉱山の町並みを抜けながら、
この夏4年ぶりに家族全員で帰省した時に見た、
庭木が鬱そうと茂り廃屋のようになっていた愛媛の実家を思い出していた。

 おりしも後1年余りで退官して再就職しなければばらない。
本来なら実家に帰り、子どもや孫達に帰省先としての「田舎」を構えてやりたい。

しかし、田舎では子ども3人分の教育費とローン等は稼ぎようもない。

 かって中津峡の鉱山に住んでいた2000人の人々も、
農家で家族が養えなくなった私たちと同じく、
鉱山で経済的に生きていけなくなってやむなく山を去ったに違いない。

 そして、そのお孫さん達の代ともなると、
中津峡もふる里でなく、
単なるたまに訪れる観光地にすぎなくなる。


 今回、荒川の源流が、完全に二つのダムになってしまったこともショックだった。

水源の確保という誰もが信じる建前の建設目的を挙げ、
実際には建設業界への旧与党の票のための税金のばらまき行政の、
つまり失政のシンボルにならないだろうか。

一部の者への瞬間の目先の利益となるだけで、
永久(とわ)の水源にならないばかりでなく、
自然を破壊し、
その土地の人々とあらゆる生き物の生きる糧を
未来永劫奪うものではなかったか。

 
田舎の四国の四万十川は、
日本一の清流が一年365日常に満々と流れている。

一つのダムもないからだ。

四国山地の天然の照葉樹林が太古から最高のダムの役割をしてくれている。
今でも1mを超える天然の鯉も釣れる。


人口のコンクリートダムを造ることによって、
自然林を破壊し、
生態系を破滅し、
水源自体も消滅させることが、
先覚者達に何度も指摘されてきた。

 その意味では、
今回建設途中の八ッ場ダムの工事を中止したことは評価できる。

ダム建設にかかる費用の何十分の一以下で、
源流全域の山々に列島本来の広(照)葉樹を植林すれば、
未来永劫の水源が確保できる。

しかも本来の天然の広葉樹林になれば、
人工林のスギなどの花粉問題もなくなる。

明治以降の目先のお金を求めたスギやヒノキなどによる針葉樹林化が、
豊かな日本の山を、生物の住めない死の山にしてきた。

縄文時代からわれわれ日本人の祖先が、
限られた列島の自然(照葉樹)林を、
歴史を越えて守ってくれていたということに、
今こそ思いをはせる時ではないだろうか。

 
かって北海道日高の漁師達は、
海産物を取り戻すために、日高の山に分け入った。

明治以降の北海道開拓で失われていた
本来の天然林の再生のために大規模な植林を行ったのだ。

豊かな海の幸は、
豊かな自然林の滋養で育つことを知ったからだ。

数十年後、その成果が現れた。

今も日本全国の食卓に、
おいしい天然の日高昆布が絶えることなく並ぶのは、
この時の黒松等の植林のお陰である。
 


今回撮影した中津峡の紅葉の写真を見ながら、
是非今一度、山と街、人と自然と命について考えてほしい。


 なお、写真は、下記の最新アルバムの「秋津峡、峠の雪」をご覧ください。
*間違って写真アルバムは「秋」津峡にしてしまいました^^;

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
メルマガ:心のビタミン(エッセー) http://www.emaga.com/info/heart21.html
新心のビタミン写真 http://cid-7ee92fe6821f38ad.profile.live.com/
最新アルバム http://cid-aba6ea878c935265.skydrive.live.com/albums.aspx
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





池田整治のメルマガ・心のビタミン
読者購読規約
powered by まぐまぐトップページへ
 

フィード