2008年 3/7 明神山踏破・・・自然は魂のふるさと(その一)
明神山踏破
…自然は魂のふるさと
(山歩きは自己責任で)
11月17日と翌1月18日の2回、
奥三河名山八選に入り、
その中でも愛知県随一の名峰と言われる明神山(みょうじんさん)に登ってくる。
明神山は、愛知県北設楽郡東栄町と新城市(旧鳳来町)の
境にある標高1016mの霊峰であり、木曽山脈の南端に位置している。
この山を含む周辺の山々は、「設楽山地」と呼ばれている。
その中でも明神山は主峰である。
また木曽山脈に続く稜線を西北に約10km行くと「平山明神山」があり、
これと区分して「三ツ瀬明神山」とも呼ばれている。
ただし、この設楽山地は、通常の山地のように単純な数本の稜線でなく、
至る所で唐草模様のように渦巻く複雑な地形である。
そして隣の鳳来寺山の鏡岩に代表されるような垂直の絶壁が
いたるところに存在する。
この特性もその成り立ちを知るとなるほどと思うが、
まだ1回目の登山の時点では知っておらず、
前回登った弓張山系とはかなり異質の山という認識だけはしていた。
全国各地に「明神」という山があるが、
ほとんどが山岳信仰から付けられたと思われる。
三ツ瀬明神山の場合は、鎌倉時代の護良親王(もりながしんのう)の
別名「明神」から来ている。
護良親王は、幼名「大塔宮(おおとうのみや)」の通称でも呼ばれ、
後醍醐天皇の始めた建武の新政で征夷大将軍となり、
六波羅探題を滅ぼす等鎌倉幕府討伐に貢献し、
民衆にも人気だったと言われている。
しかし同じ倒幕の貢献者である鎮守府将軍の足利尊氏を警戒し、
ついに後醍醐天皇とその寵姫阿野廉子とも反目。
捕らわれて鎌倉の足利軍政府に送られ、
二階堂ガ谷の東光寺に幽閉された。
翌年、北条時行の中先代の乱が起き、
鎌倉が北条軍に一時的に奪還されると、
時行に奉じられることを恐れた尊氏の弟直義により殺害された。
時代の悲劇のヒーロー的存在であった。
処刑後、その生まれ変わりになった鷹が、
京都に帰る途中、初めて羽根を休めたのがこの山で、
それにあやかり「明神山」としたと言われている。
それだけ昔から魅力のある山であり、
かっては信仰の登山も盛んに行われていた。
ところで今回は、人任せの「お大名」的登山を猛省するいい体験となった。
後援会会計の中西さんと夏祭りにお会いしたときに、
私が東三河の山登りを楽しんでいることをお話すると、
是非一緒に奥三河の山を登りましょうと意気投合していた。
伺えば中西さんも若い頃は、
奥三河などの山々を幾度となく踏破されているベテランハイカーである。
現在、豊橋市郊外で大々的にハーブを栽培されていて、
多忙で最近は山登りをしてないということで、
私の「登山談」が中西さんの心に火をつけたのかも知れない。
私も奥三河の山は、鳳来寺山しか登ったことがなく、
また時期的にはハーブの出荷等の合間を狙うしかない。
もっともこれは、私と登るということで、
奥様に二人分の仕事を任せる合法的職場離脱の口実となったのかも知れないが…^^。
いずれにせよ、いつ、どの山に登るかは、中西さんにお任せした。
この「お任せ」はズバリよかったのだが…。
そして、ピグマリオン効果、
つまり組織のトップの考えが下に影響を与えるという作用で、
自然との対話ができる山登りに目覚めた
1科長田端さんと副連隊長大倉さんも一緒に登ることとなった。
絵に描いたような中年男4人組の登山道中である。
このため中西さんと田端さんが細部調整して登山を計画することとなった。
同じ単身赴任ながら田端さんだけが足(自家用車)もあり、
何かと便利である。
明神山に11月17日に登ることが決まってからというもの、
田端さんは往復路ともにJR飯田線の各駅からバス停、登山口までを
自家用車で事前に現地偵察して、乗り継ぎ等綿密に確認し、
またそれぞれデジカメで撮って往路、復路を各
A4用紙1枚に整理して印刷、配布するとともに、
2.5万分の1の地図に通過ポイントをいれた
「明神山登山計画」まで作成してくれた。
まさに血液A型人間の本領発揮である。
O型人間の私など、乗る列車の時刻さえ調べたこともない
行き当たりばったりの登山ばかりである。
こういう経緯もあり、田端さんに心から感謝しつつ、
全くの人任せのいい気分の大名登山で臨んだ訳である。
11月17日は朝5時に起き、おにぎり4コを作る。
5時45分に田端さんの車に4階の大倉さんとともに拾われ豊川駅に行く。
駅裏のパーキングに車を預け、7時14分の本長篠行きの列車に乗車。
車内で中西さんと合流。
7時27分東栄駅下車。
駅前バス停から33分発のバスに乗り、
明神山の東側を北上する国道151号の
新本郷トンネル入口の「三ツ瀬口バス停」で42分下車。
奈根川沿いの谷間の小さな集落をいくつか抜けながら約3km歩き、
8時30分三ツ瀬登山口に到着。
いよいよ登山開始!
とここまでは、緻密な田端さんの計画通り、流れるように進んだ。
あまりに順調に流れるので最後の三ツ瀬集落でひときわ目立つ立派な
砦のような屋敷の石垣を写真に納めることさえ
流れに逆らうようでできずじまいだった。
田端さんが作ってくれた「登山計画」書の「登山入口」には、
彼の撮った写真のとおり入山記帳のノートを収める小さな箱があった。
ここから登山道はしばらくジープ道として西に直進するようになっている。
約500mほど進んだところで左手に「明神山登山口」の大きな看板があったが、
特に意識することなくそのままジープ道を直進した。
やがてその道が右の尾根をつづら折りに登るようになったが、
それでも途中に早朝からの登山者のものと思われる車が置かれていて、
そのまま登ればいいと誰もが思っていた。
すると前から青い作業服を着た森林組合の人が下りてきた。
「どちらにいかれるのですか?」と尋ねられ、
明神山ですと答える。
怪訝そうな顔をするので「計画書」すなわち地図のコピーを見せる。
実は同じ2.5万分の1の地図でも、
登山観光案内用の地図にはしっかりと赤く登山路が描かれているが、
国土地理院発行そのままの我が地図には、
山道は全て同じ黒い点線道としてしか表示されていない。
「この川の左岸沿いの点線道をまっすぐ行けば稜線道に出るはずなのですよね」
と地図で示す。
「そうですね…。気をつけて登って下さい」と別れたが、
100mも行かないうちにやはり何かおかしいと立ち止まる。
ここで初めて真剣に地図と現地を照合する。
登山道とはあきらかに違うので引き返すと、
先ほどの若い森林組合員がわざわざ引き返して
正規の登山道がここでないことを教えてくれる。
車も彼の車であった。
「計画書」の「登山入口 標高360m」の位置が、500m手前だったのだ。
だから本当の登山口の看板を越えても気にすることなく
そのまま植林管理用のジープ道を進んだわけである。
もっとも入山記帳のあるボックスがあったので、
そこが登山口と間違えても仕方ない。
もし、事前に観光登山用の地図を見ていれば、
看板の位置が本来の登山口入口と最初から認識できたかも知れない。
要は、登山の鉄則である、要点でコンパスと地図で自己位置と方向を決定すること
をしない己の責任である。
再度本来の登山入口の看板に戻り、9時再出発。
確かに登山道独特の数え切れないほどの
人の足跡による岩や木の根などへの形跡が見られる。
風化に対して「人化」と呼ぼう。
地図等がない場合は、このかすかな人化を見分ける能力が
登山成功の鍵ともなる。
それにしても早朝にもかかわらず、森林組合の人がいて良かった!
もしあのまま、これまでの登山のように
「まっすぐ進めばやがて稜線に出る」と強行していたら…。
奥三河の山々は高さこそ1000m前後だが、
その生い立ち上、絶壁が多く、
経路をしっかり守らないと極めて危険なのである。
実は、その危険な理由もあとでしっかりわかるのだが…。
登り始めるとかなり急勾配である。
20分後に「銀明水」に到着。
かっては霊水が溢れていたようだ。
地図では確かにここから「小川」が流れていることになっているが、
環境悪化のためか全く水がない。
このあたりは大規模な植林地帯になっている。
つまり、本来豊かな自然のダムの役割の常緑自然樹林から、
人工的針葉樹林になって、
そのダム作用が全く無くなり霊水も枯渇したに間違いない。
逆に間違って素通りしたジープ道沿いは、
上流に自然林がまだ残っていて地図にはない小川が一年を通じ流れている。
それらから判断すると、
かってこのあたり一面が自然林のままの時の銀明水は、
名の通り銀色に輝いて見えるほどかなりの水量であったに違いない。
だから地図に小川として記述されたのだ。
人口のダムと植林が、
本来の自然森林の命の源の清流を枯渇させる。
ダムのない自然林豊かな我がふる里四国の四万十川は、
年中豊かな水と自然の恵みを与えてくれている。
逆にダムで流れの澱んだ河川は死に、
植林地帯に動植物は育たない。
名前と地図だけに残った「銀明水」を見て、
果たして日本人が本来民族のDNAとして培い
あるいは美徳として備わっていた自然との共生を、
いつ思い出すのだろうかと一人感慨に耽っていた。
いずれにせよ、
なぜ疑問もなくまっすぐ「小川の左岸沿い」を進んだかよくわかった。
5分休憩後、更に30分近く、
角度を増すつづら折りの山道を息を切らせながら登り、
「三ツ瀬峠」すなわち稜線道に出る。
するとすぐ目の前に最初の絶壁が現れる。
6合目を前にしてこの絶壁である。
その絶壁を左手に見ながら、
その脇を鉄ハシゴとくさりの連続した岩場を登る。
絶壁そのものは登れないので、
その淵沿いに絶壁の上辺まで登るのである。
登り切るとまた水平に近い柔らかい稜線道となる。
これを繰り返しながら10時30分、
南方向からの乳岩峡登山道との合流点である6合目に到着。
少し休憩した後、北に少し鞍部を下り、
そして再度登り始めると稜線道もいよいよ狭くなるとともに、
岩が連続して出ている。
くさりとはしごの道も長くなる。
それだけ露出している岩も大きくなったわけだ。
やがて垂直に立った岩に架かる鉄はしごを真上に登ると
「馬の背岩」に上がった。
幅約2m、長さ約10mの文字通り裸の岩の上辺。
つまりここだけは左右とも絶壁である。
特に左に落ちれば命は亡くなると思われる。
ただしとても怖くて、
その真下がどんな状況なのか覗き込む勇気は無かった。
(ここを通った人は皆同じだと思う。絶対^^;)
だから実際どの位の高さの絶壁だったのか未だに知らない。
地形上、この「馬の背岩」を通らない限り、
南からの稜線道沿いの登山はできないのである。
高い平均台の上を歩く心境でソロリソロリと歩んだ。
ところが絶壁の上辺のお陰で、
見晴らしが良く、
特に西方向に鳳来湖(宇連ダム)越しに
鳳来寺山~宇連山~鞍掛山の山々を見渡すことができる。
明神山山麓の紅葉も今が盛りである。
丹田に力を入れて仁王立ちで、
しかし急いでリュックからカメラEOS1vhsを取り出して
3枚だけ撮影する。
そしてさらに登り、
最後の長いくさり場の岩を上がって、
11時25分山頂に到着。
山頂には鉄製の頑丈な展望台があり、
晴れた日には、北に赤石山脈、東には富士山、
南には三河湾・浜名湖の雄大な眺めが味わえる。
今回は少し霞がかかっていたが、
それでも全周的な眺望を楽しんだ。
さすが愛知国体で成年男子の縦走競技の舞台になっただけはある。
この展望台で昼食を摂ることにする。
暫くすると中西さんがマナスルを取り出して
お湯を沸かしだしたので、
熱いインスタント珈琲でも入れていただけるのかな、
と期待する。
ところが次に取り出したのが、
なんと茶道用の本格的な茶碗など一揃えではないか。
山頂でわざわざ本格的な野点を催していただいたのである。
これには感謝、感激して美味しくお代わりまでいただいた。
中西さんは、近郊農業にハーブを選ばれ、
また無農薬有機栽培の野菜も作られており、
あるいは「気」を感ずることもできる感性豊かな方とは存じ上げていたが、
少しでも軽い荷物にまとめる厳しい登山で、
茶道のもてなしを何の前触れもなく密かに準備して行うその人間力に、
まさに感動した。
また忙しい出荷時期に、
一日の「いとま」を与えた下さった奥様にも改めて感謝した。
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