2008年 2/5 鳳来寺山行者越を訪ねて・・・人生はめぐりめぐりて(その一)
鳳来寺山行者越を訪ねて
・・・人生はめぐりめぐりて
10月13日午後、愛知県を代表する名峰鳳来寺山の行者越の踏破に行く。
これまで鳳来寺山そのものは何度か訪ねていた。
まず始めに豊川着任早々、
鳳来寺山パークウェイを使って一気に車で登って案内していただいた。
その直後、豊川単身赴任族の某先輩から、
山の麓から階段を一歩一歩噛みしめて登ってこそ
古(いにしえ)の趣を感じることができると指摘され、
さっそくJR飯田線の本長篠駅からタクシー乗り合わせで、
かっての門前宿場町の門谷まで行き、
表参道の1425段の石段を登って鳳来寺を参拝。
更に奥の院から鳳来寺山頂、
鷹打場、東照宮とまわる約3kmの山頂ハイキングコースを満喫した。
一昨年の暮れに妻と子供下二人(三男悠人:小6、長女真菜:小3)
プラス一匹(我が家の新顔、ミニチュアダックスフンド♀;ハッピー)が
埼玉から車で来た時には、
パークウェイを使って鳳来寺を見せた後、
15分ぐらいで回れていい景色楽しめるから、
と軽く言って全員で山頂コースを歩いた。
妻はハイヒールであったが、
ゴツゴツした岩肌と鉄ハシゴの続く結構険しい山道を
文句も言わず1時間半ほどよくついて歩いた。
さすが石垣と段々畑が有名で、
社会科の教科書に写真が載るだけの中泊(愛媛県愛南町:旧西海町)で
育っただけあると感心したものだった。
しかも東照宮に下りてきた頃には、
みぞれとなって、本堂のひさしでしばらく雨宿りまでしてしまった。
もっとも私にとっては、そして子供達にとってもいい思い出だが、
妻はまたも!?だまされたと夫への不信感をつのらせたようだ。
これ以降、簡単な山登りと誘っても二度とついてくることはなくなった。
昨年暮れに再び三人プラス一匹で来たときに、
東三河の霊峰本宮山を車で案内しようとした。
山頂に駐車場があるからと言ったが、
妻はお父さんの言うちょっとの山登りは…と一人官舎で休んでいた。
もっとも履いてきているハイヒール以外に
運動靴を持って来るというようなこともなかったが…。
鳳来寺山ハイキングで妻への信頼貯金をかなり取り崩したらしい。
願わくば、赤字になっていないことを祈るのみである。
ところで何回かいくうちに「行者越(ごえ)」あるいは
「行者還(がえし)」という難所があることを知った。
知れば必ず行きたくなるものだ。
例えて言うならば、ジグソーパズルの最後の、
しかも全体の構図の中の重要な一片のはめ込みを忘れたようなものである。
では行者越とは、鳳来寺山の中でどのような位置になるのだろうか。
そもそも鳳来寺山そのものは、
今から約1300年前の大和王朝成立当時、
利修仙人が鳳来寺を開いた時から呼ばれるようになった。
今では山そのものが名勝天然記念物に指定され
全山ほぼ原生林に覆われている。
表参道の石段の坂道は杉の木が多く、
鳳来寺杉の名がある。
ちなみに愛知県には、
「名勝」「天然」と重なる記念物が三つあるが、
その全てが旧鳳来町(現新城市)に存在する。
他の二つは、阿寺の七滝と乳岩及び乳岩峡である。
1億5千万年の歴史のある日本最長の活断層、中央構造線の賜であろう。
利修仙人は、570年に山城の国、
今の京都に生まれたとされる。
鳳来寺山の北西の岸壁の下の岩窟に
仙人が護摩を焚いて修業をしたという所があり、
今でも石像が祀られていて、地元では仙人様と呼んでいる。
ちなみに鳳来寺の正式名は、煙巌(えんがん)山鳳来寺という。
煙巌というのは、
利修仙人の焚く護摩の煙が絶えない厳(いわ)という意味である。
また鳳来とは、鳳凰が舞い来るという意味を持っている。
昔、この山に大きな桐の木があって、この山を桐生山と言っていた。
この木に鳳凰がやってきて住んでおり、
利修仙人がこれに乗って自在に飛び回ったと言われている。
利修仙人は、655年頃、百済の国に渡って仙術や仏教を学び、
鳳凰に乗って帰国、桐生山中に住んで三匹の鬼神を自由自在に使っていた。
また当時は、大和国の役行者(えんのぎょうしゃ)が開いた
日本の山岳宗教である修験道が盛んな時代であった。
これは神仙の術と宗教を、
日本にあった山岳宗教に取り入れて開いたものである。
修験場としては、吉野の金峯山(きんぷせん)や奈良の大峰山が有名である。
私もかって20代後半、京都大久保に勤務していた頃、
これら吉野から大峰山脈を仕事で縦走したことがある。
今またかっての修験の場であった鳳来寺山を歩んでいると、
なんとなく心も落ち着き自然との一体感を覚える。
ひょっとして前世の一つは、修験僧であったかも知れない。
この役行者は、本名を役小角(えんのおづね)といい実在の人物で、
この鳳来寺の利修仙人を訪ねて来たこともある。
利修仙人とは兄弟であったという説もある。
ところで655年と言えば、
その5年後の660年に百済が、
619年に隋を倒した大陸の新興大国唐に滅ぼされ、
更に668年には高句麗が滅ばされている。
対外膨張志向の高かった初期の唐に対して、
朝鮮半島における防波堤として新羅だけが最後に残ったのである。
こういう国際関係の動乱期、成立したばかりの日本国の危機時代に、
その現地の情勢を知悉し、
人脈もある利修仙人が朝鮮半島から帰って桐生山に住んでいたのである。
ちなみにこの時代、日本国といっても大和王朝の力の及ぶ範囲である。
例えば中央構造線の東側の中央日本には高句麗人が住んでいた。
もっともDNA鑑定から見れば、
今の日本人の90%は朝鮮半島経由の血が流れている。
大和王朝の中にも滅びた百済、高句麗あるいは新羅からも
貴族として多数の人々がやってきて同化していった。
また朝廷内でもこれら諸国の言葉が
日常の会話で多く使われていたと言われている。
実は、古代から日本で話されていた大和(やまと)言葉には文字がなかった。
現在日本で使われている漢字は、
もともとあったこの話し言葉を高句麗からの帰化人が
漢字を当てはめて文字にしたのが始まりである。
これまでの口伝、伝説等が、訳者の意図で漢字化、文章化されたわけである。
それ故、本来の大和言葉の意義、あるいは神話、言い伝え等本来の意味を、
日本人の心で感得しなければならない所以である。
672年、成立ばかりの日本国・大和王朝にも激震が走った。
壬申の乱である。
38代天智天皇崩御の後、
子の大友皇子(おうとものおうじ)と
天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)が
武力で後継を争ったのである。
単なる後継者問題、
あるいは有力な貴族間の勢力争いなど国内問題との説明が多い。
ところがこれは、じ後の日本の進路を左右する決定的な宮廷クーデターであった。
大和王朝内にも、脅威を増す唐に対して、
これまでのように朝貢外交により倭国すなわち属国として庇護下に生きるか、
新羅と連携して唐に対抗・独立国として進むかの二つのグループがあった。
一時朝貢派の大友皇子が継承していたところを、
独立派の大海人皇子が武力で奪権し天武天皇となったのである。
唐側でも近江にある大友皇子政権を倭国、
大和にある大海人皇子政権を日本国と呼んでいた。
壬申の乱により、
国際関係上も聖徳太子が生涯望んで果たせなかった
独立国家としての日本国が誕生したわけである。
698年、天武天皇の孫にあたる文武天皇が重い病気になられた時に、
利修仙人は鳳凰に乗って都に行き、
祈祷により天皇のご病気を治された。
天皇はお礼に寺を建てることを約束された。
そして大宝3年(703年)、この桐生山に寺を建て、
鳳来寺と命名し、仙人の労に報いられた。
以来、山自体も鳳来寺山と呼ばれるようになった。
鳳来寺の本尊は薬師如来である。
奈良時代の当時、信仰を集めていた仏様は、
現世利益の薬師如来で、
瑠璃如来とも言われている。
このため山頂を瑠璃山ともいう。
往時には奥の院の近くに7本の大杉が並んでそびえていた。
利修仙人は、その一本を伐って本尊の薬師如来像を刻んだと伝えられている。
また残りの木材も仏像となって各地の寺に祀られたという。
1本減った杉は、その後6本杉と呼ばれ、
古い鳳来寺の絵には必ず描かれている。
しかしながら時代の風雪の中で、落雷で焼けたり、
風で倒れたりして、1本また1本と消えていった。
そしてとうとう最後の1本も落雷で芯が焼け、
平成2年の台風で危険になり、ついに平成4年に伐られてしまった。
この大木の根元の空洞には大人が24人も座れた。
この大杉で、平成の薬師如来が作られ本堂に祀られている。
鳳来寺の本堂は、昭和49年に現在のコンクリート製の本堂に建て替えられた。
1300年も続いた古刹が、近代的なコンクリート製なので、
1425段の石段を苦労して登って来た者にはガッカリさせられてしまう。
ただし、この本堂を建て替える時、
地中から「鬼の骨入」と彫られた石の箱が発掘された。
利修仙人が使っていた三匹の鬼の骨と言われている。
利修仙人が878年に309歳で入寂された時、
鬼神達を諭し、その首を撥ねて本堂下に封じ込め、鳳来寺を守護させた。
この三匹の鬼神の霊を慰めるために
鳳来寺田楽が始まったと伝えられている。
309歳と聞くと単なる伝説と判断しがちである。
ところが、イギリスの科学者達が戦前ヒマラヤを現地調査したときに、
寿命数百歳の聖人達がいて人類の幸福のための祈りを捧げていることが
「ヒマラヤ聖者の生活探求」で克明に報告されている。
利修仙人もこれらの聖人と同じだったと思われる。
神にも近い360度全方位的な能力をDNAに持ちながら、
生まれた直後から環境と教育で徐々にその能力を狭めていく現代人には、
理解の範囲を超えているかも知れない。
いずれにせよ箱はレプリカを作って、
本物は元通り本堂の下の地中に埋め戻された。
今も利修仙人の言い付け通り、鳳来寺を守っているのだ。
もっとも現在の本堂の裏手のやや高いところに、
廃屋となっている旧御堂がある。
こちらは昔ながらの伝統的な木造で、積み重なった歴史の趣がある。
本来はこのような「本物」の本堂を再建したかったに違いない。
檀家のいない経済的支えのない古刹の伝統継承の難しさを教えてくれている。
これは同時期に大和王朝によって建てられた
国分寺や国分尼寺と同じような運命でもある。
しかしながら幸いにも鳳来寺の場合、
鎌倉時代に源頼朝の庇護を受けて再興した。
1425段の石段も頼朝の寄附と伝えられている。
更に慶安6年(1648)4月、
三代将軍徳川家光は日光東照宮参詣のおり、
「日本東照宮御縁起」を見て、
家康の父広忠が於大の方とともに鳳来寺の本尊峯薬師如来に祈願して
家康が生まれたことに改めて感銘し、
祖父報恩のため鳳来寺に東照宮の建築を命じ、
4代将軍家綱が慶安9年に完成させた。
全国に多くの東照宮があるが、
鳳来寺東照宮は日光・久能山とともに三東照宮と称されている。
それ以降、鳳来寺の参詣者が多くなり、
特に江戸中期以降から明治の中頃までは、
伊勢神宮及び秋葉山とともに日本三大参詣所として賑わった。
火防の神として全国に知られる秋葉山は、
赤石山脈の南端、鳳来寺山からは真東に約25kmの位置にあり、
鳳来寺山とともに天竜奥三河国定公園に指定されている。
赤石山脈を本堂と見たてた場合、
鳳来寺山及び秋葉山は弓張山系など南からの表参道入口において、
睨みを利かせる左右対の仁王像のようである。
東海道の脇道として豊川稲荷を通る姫街道があるが、
更に信仰の道・参詣の脇道として鳳来寺・秋葉道がかっては栄えていた。
西の三河からは表参道の1425段を上り鳳来寺に参詣し、
行者越を下りて秋葉山に向かう。
逆に東の駿河からは秋葉山参拝後、
行者越を登って鳳来寺を参詣し、
1425段の階段を下りた宿場町門谷に投宿する。
この経路の一番の難所が行者越であったわけである。
今は東海自然歩道と重なって整備されている。
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