2008年 12/26 ああ、エイペック…今夜も 洞爺湖の町に エコが灯ります(その一)
ああ、エイペック
…今夜も 洞爺湖の町に エコが灯ります
平成20年7月…
いまや完全に自らが都会生活のゾンビの流れの一人として飛び込んだ
帰宅時の武蔵野線の電車の中で、
偶然にも目の前に貼られた一枚のポスターの写真を見て、
思わず釘付けになった。
ポスターは某電機メーカーのエコ電灯のPRで、
洞爺湖サミットの会場となったエイペックホテルの斜め後ろ上空から、
うす紫色に暮れゆく洞爺湖全体を鳥瞰図的に写した写真であり、
エイペックそのものや湖畔の町並みの灯りが幻想的に浮かび上がり、
「今夜も 洞爺湖の町に エコが灯ります」と書かれている。
『ああ…あのエイペック、あの時と同じ構図だ…』
写真を凝視するうちに、意識が当時にフラッシュバックした。
平成12年3月…
あれは平成12年の3月末だった。
有珠山が約20年ぶりに噴火することになった。
北方総監部として誰かが現地連絡幹部で行かなければならない。
実は、有珠山は二、三十年ごとに噴火を繰り返している。
前回の噴火は、私が防大を卒業して初めて東千歳に赴任した時であり、
独身官舎で先輩達に歓迎会を実施してもらっている最中だった。
直ちに災害派遣となった。
先輩達は、連隊の情報小隊長や通信小隊長など重要な職務であったが、
アルコールが入っているので自ら車で出勤するわけにはいかない。
すると駐屯地を出発した車が、途中で各主人公を拾い上げて、有珠山に向かった。
少々赤ら顔ながらも、速やかに戦闘服装に着替え、
毅然とジープに乗り込んで指示する先輩達を見送りながら、
この職を選んだ以上は休日であっても万一に備えて泥酔はできないな、
と心でつぶやいた。
その約20年後、奇しくもまた有珠山の噴火に巡り会うことになった。
我が身に起こることは全て必然・必要・ベストという。
今から思えば、この二度にわたる有珠山の噴火との遭遇も、
人生における約束事だったのだ。
当時は、北方総監部防衛部の訓練班長として、
あらかじめ計画した訓練検閲等が予定されていた。
しかし自ら有珠山に行くことを申し出た。
密かに『この役目はオレにしかできない』との自負心を抱いて…。
平成7年1月17日
その5年前の平成7年1月17日5時46分、阪神淡路大震災が発生。
当時陸幕運用1班の先任だった私は、
その四日後、陸幕現地連絡班を編成して自ら現地入り。
じ後1週間交代で現地と中央指揮所勤務を繰り返し、
延べにして35日間、現地から日々レポートを中央に送り続けた。
その最後のレポートの結言が、
「運用で成功したが、広報で失敗」だった。
6000名以上の尊い命が突発的に失われ、
しかもその情報がなかなか入らない。
さらに、元来反自衛隊的雰囲気の街と言われていたにもかかわらず、
現地部隊の身を挺した活動は、一種の感銘を与え、
テント宿泊地に「自衛隊さんありがとう」という張り紙までされるようになった。
しかしながら、現地のそれぞれの組織の思惑等による
「朝10時に知事から派遣要請」があったという「取り決め」をもとに、
様々なマスメディア情報等が流れ、
総論的には、自衛隊の出動が遅れたという一般的認識が残ってしまった。
確かに、当時の村山社会党政権下、
国として整斉統一とした救助活動がおこなわれたとは言い難いのは事実であり、
この反省に基づいて、大規模災害救助法が改訂された。
これにより、大災害が起こった場合は、現地に政府対策本部、
つまり「ミニ霞ヶ関」を直ちに立ち上げ、
内閣安全危機管理監と当該災害等所轄省庁次官が長となって、
国として一元的に救助活動を指揮することになった。
この際、それまでは自衛隊も、
知事の派遣要請に基づいて出動し知事の指揮下で活動していたが、
これ以降の大災害は知事等地方行政機関も、
現地政府対策本部のもと、自衛隊等と同じく
単なる一実行機関として活動することになった。
より具体的に言えば、災害当初の人命救助等の緊急的段階では、
地方自治体が活動する場面はまず無い。
現地対策本部の決定=総理大臣=国家の意思として、
ただちに実行(動)部隊である警察・消防・自衛隊の派遣部隊が行動する。
その後、被災者の生活支援から復旧活動という行政的範疇に、
徐々に活動の焦点が移るにつれて、権限が地方自治体に移行され、
最終的に政府現地対策本部は中央に引き上げることになる。
有珠山噴火は、その救助法の初めての適用となった。
しかし、ふだん霞ヶ関でデスクワークをしている官僚達が、
現地でどのような活動をすべきか、その前例はもちろん、
今はやりのマニュアルなど一切ない。
器はできたが、中味は誰にもわからない。
平成6年…
実は1994年(平成6年)の第一次北朝鮮危機、
つまり阪神淡路震災の前年から、警察庁北朝鮮問題プロジェクトと、
「北朝鮮軍コマンドが日本に侵攻して来た場合」を想定し、
原発の防護要領特に警察との共同対処要領(そのための共同訓練)等の勉強会に、
自衛官として唯一参加していた。
そして実際に敦賀原発の現地研究等をおこなっている最中に、
阪神淡路大震災が生起し、急遽これに対処。
さらに災害対策指揮活動中のさなか、
地下鉄サリン事件に引き続くオウム上九一色村サティアン強制捜査に、
警察指揮官の運用アドバイザーとして自衛官としてただ一人同行していた。
その際に、サンデー毎日に望遠レンズで大きく上半身を撮られ、
その写真が掲載されることまで体験していた。
もっともこの時は機動隊員のコートを着ていたので、
個人が特定されることはないと、
対テロ対策上の観点からはやや安心していた。
また、この勉強会と同じシナリオが、
麻生幾の「宣戦布告」という小説の形となり、映画化もされ、
じ後日本での有事研究・立法化の端緒になったのも記憶に新しい。
こういう一連の「実戦体験」から、
『阪神淡路のリベンジだ…』と、
ひそかにその思いを抱いて平成12年3月29日現地に向かった。
平成12年3月29日 伊達政府現地対策本部(市役所4階)
現地では、まず有珠山火山研究の第一人者である北大の岡田教授の観測と
状況判断を全面的にバックアップすることに支援が集中された。
このため地上では、第7偵察隊が火口を中心に
360度24時間の目視観測態勢の配置につくとともに、
航空自衛隊のジェット偵察機による一日一回の航空写真提供、
更に随時陸自のヘリコプターに岡田教授自身に乗り込んでいただき、
火山活動予測、特にいつどのように噴火するのか、
その場合のハザードマップ、
つまり被害予測に基づく住民の緊急避難の要領等の判断の資にしていただいた。
岡田教授は、20数年前に有珠山が噴火したときに、
当時有名だった火山学者の弟子として
観測機材等を担いで山を歩いていたそうである。
今では彼がその先生の代わりに第一人者となって、脚光を浴びている。
同じ火山学者でも、噴火しない山の学者は一生メディアに登場することもない。
どの山を研究するかによって時の人になるか
あるいは学者として成功するかも決まるわけである。
3月30日深夜、伊達市役所4階に設けられた政府現地対策本部の
陸上自衛隊の「島」の机の下の床の上で横になって仮眠していると、
ドーンと床から突き上げられるような震度5の地震で飛び起きた。
すぐに偵察隊から無線で、
「有珠山上空にオレンジの光が見える!」と報告が入った。
「すわ!噴火か!!」と窓から眺めたが、
真っ暗な夜空に変化が見られない…。
岡田教授に後で伺うと、マグマがいよいよ地上にせり出して、
その圧力で地殻が割れて、その中の自由電子が空中に放電したものらしい。
いずれにせよ「産道」ができたわけで、
いよいよ噴火が間近になったわけだ。
このため明るくなって記者会見が行われた。
説明するには、その地殻の割れ目が写っている写真がいいと言うことで、
急遽自分たちの島の壁に貼ってあった航空写真を提供した。
これに透明なビニールをかけて、
岡田教授が必要なハザードマップをマジックで記入した。
その地図を誰かが持って、それを指しながら岡田教授が説明することになった。
そしていきがかり上、私が持つことになった。
そのTV放映の映像を見て、
「いつから岡田教授の助手になったんだ?」と皮肉をいう先輩もいた。
しかしながらこういう状況下では、陸上自衛官の迷彩服姿が画面に出ることが、
住民の不安感の除去、民生安定に極めて有効なのである。
例えば阪神淡路被災地では、宝石店等もそのまま瓦礫の下にあり、
夜間、盗賊などによる二次被害の不安感が住民に広がった。
このため担当する連隊長等がジープを巡回させるなど
機転を利かせて治安の維持に貢献した。
また、地下鉄サリン事件以降、
模倣犯が起こした疑似ガス事案等では、
一番近い駐屯地の当直幹部に、
ただちに当直の緊急用ジープで現場に向かわせて、
先ずTV画面に映ることにより、住民の不安感を一掃し、
安心感の付与に役立てた。
マスメディア時代には、
メディアと一体になった迅速な行動が極めて重要である。
実は有珠山は23年前の噴火以前は、
今の岩だらけの頂上部が、小さな湖と自然林に囲まれ、
有料の山小屋もあるオアシス地帯だった。
有珠地方の人々は、二、三十年ごとの噴火と共生しながら、
温泉とオアシスを観光資源として生きてきたわけである。
それ故、今回も噴火は山頂部と思われていた。
だから数日前から、7師団の偵察部隊も山頂を中心に円形の監視態勢を作り、
噴火直前も、頂上部を避け麓を走る国道230号の真上を、
方面航空隊のヘリが監視のために飛んでいた。






