池田整治のメルマガ・心のビタミン
読者購読規約
powered by まぐまぐトップページへ
 

2007年 10/15 殉国七士の碑から歴史を読む・・・三ヶ根山・竹島・石巻山を訪ねて(その一)

殉国七士の碑から歴史を読む
     ・・・三ヶ根山・竹島・石巻山を訪ねて

8月5日、連隊後援会の塩田さんに案内していただき、
三ヶ根山、竹島そして石巻山の撮影に行く。

話は、その1週間前に地元豊川市ひまわり農協との共催で行われた
駐屯地納涼夏祭りにさかのぼる。

ご家族で見えられた塩田さんに、
写真紀行、特に三河湾を取り囲む渥美半島や知多半島などの話をした。

すると塩田さんから三河湾を一望できる三ヶ根山があること、
またそこにはA級戦犯7人の慰霊碑があることを教えていただいた。

そして、隣の奥様と相談しながら案内しましょうと言われた。
しかしながら祭りの喧騒の中で、
大人社会ではよくある実態の伴わない外交辞令となかば思っていた。

ところがその1週間後、
こうして足(ママチャリ以外の車)のない私のために、
わざわざ官舎まで車で迎えに来ていただいた。
さらに同じ単身赴任者二人も一緒に誘ってもらった。

塩田さんは、豊橋市西北の三ッ相町で代々農業を営んでいる。
まず自宅に立ち寄ると、広々とした門構えの庭に、
洗濯物を干している立派なビニールハウスが
調和良く立っているのに目を引かれた。

母屋の玄関には「有限会社」の看板が高く掲げられている。
伺えば自宅から少し離れたところに本格的なビニールハウスがあり、
大葉を栽培されているとのことである。

私も愛媛県旧一本松町の農家の跡を継いでいるが、
郷里を飛び出して今や廃農寸前である。

同じ農家の跡取りでも、塩田さんは会社形式にまで発展させている。
大葉の取り込みの忙しい中、
日程をやりくりしてわざわざ案内していただいたわけである。


まず、豊橋から三河湾(渥美湾)北岸沿いに
西に約25km走って三ヶ根山に行く。

三ヶ根山は、愛知県幡豆(はず)郡幡豆町の海抜306mの小高い山である。
標高はあまり高くないが、海に近いため三河湾を北側から一望できる。

三ヶ根山には、幡豆町から形原温泉にいたる三ヶ根山の尾根伝いに
東西に5.1km走る三ヶ根山スカイラインで登ることができる。

スカイラインは、別名「あじさいライン」の名で知られる観光有料道路で、
6月から7月初旬にかけて約7万本の紫陽花の彩りを楽しむこともできる。

さすがに8月の初旬ともなると紫陽花の季節は終わっていたが、
それでも尾根伝いの沿道にはポツンポツンと数輪残っていて残り香を味わえた。

スカイラインからの眺望は素晴らしく、
蒲郡市街から竹島、渥美半島、太平洋はもちろん、
天気の良い日には伊良湖岬から鳥羽方面、
名古屋市街の高層ビルまで見渡せることができるらしい。

今回はあいにく霞がかかっていて眺望はできなかったが、
それでも黄昏時に最高の撮影ポイントになることを確認した。

確実にあかね空の夕焼けが撮れる時には、
思い切ってママチャリで挑戦したい場所である。


そして何よりの三ヶ根山での収穫は、
東条英機元首相以下7名の霊を祀った
「殉国七士の碑」を参拝できたことである。

多分、日本のマスメディア・学校教育などを通じ
マインドコントロールされたままの以前の私だったら
手を合わせることなどなかっただろう。

しかし、年百冊の読書を目標に掲げ、
「知らないことを知る」という本来の勉強を続けるうちに、
国際関係史のスケープゴートにされた彼らの本当の姿が見えるようになった。

また古代からの伝統とロマンが薫る東三河に住むようになって
日本の成り立ちに思いを致すようになった。

そして、日本の歴史の真実を伝えることが
自分の使命の一つと思えるようになった。
その「思い」がこうして殉国七士の碑に導いたのであろう。


まず、殉国七士の碑がなぜここ三ヶ根山の山頂にあるのか、
その経緯を追ってみよう。

1946年(昭和21年)4月29日に極東国際軍事裁判(東京裁判)に
「平和に対する罪」及び「人道に対する罪」で起訴された28名のうち、
東条英機元首相以下7名が1948年11月21日絞首刑(死刑)の判決を受けた。

なお獄中で病死した者を除き、
他の被告も終身刑などを受けたが、
時代の進展とともに名誉回復した者
あるいはA級戦犯の指定を受けながら不起訴釈放され、
戦後首相や大臣、大使などで活躍し、国家から叙勲を受けた人も多い。

中には細菌戦を研究していた石井部隊のように、
研究成果との引き換えに訴追を免除された者もいる。

結果として当初処刑されたA級7人、B・C級一千余名だけが
時代の流れの中で意図的に固定された。

それもドイツのナチスがユダヤ民族虐殺で
ニュールンベルグ裁判において「人道に対する罪」に問われたのに対し、
日本軍ではこの罪はみあたらず、
曖昧な「平和に対する罪」つまり戦争を始めた罪のみ適用された。

判決後、各担当の弁護士等が遺体を家族へ引き渡すことを求めたが、
GHQはこれを拒否した。
GHQ側は極秘のうちに処分したかったのである。

このままでは遺体も遺骨も家族に引き渡されないことが明らかになり、
「罪を憎んでも人を憎まず」の日本古来の思想からも、
また勝者は敗者の屍に鞭打たないという日本武士道精神からも、
あるいは日本国の犠牲者として罪障一切を一身に受けて処刑される
7名の遺骨だけは家族に渡したいとの一念からも、
数名の有志が密かに遺骨奪回を綿密に計画した。

7氏は、判決を受けた約1ヶ月後の12月23日未明、
巣鴨で絞首刑を執行された。

米・中・ソの三国代表が立ち会い、
処刑係は米軍のマルチン・ルーサー・キング軍曹、
後の黒人運動家であった。

奪回のため、まず担当弁護士が、
極東裁判米国検事の某氏から刑の執行日をクリスマス前の23日と探知し、
距離など位置関係から火葬場を横浜市久保山火葬場と推察した。

そこで横浜久保山にある興禅寺住職市川伊雄氏を通じて、
火葬場長飛田三喜氏の協力を得て、
厳しい米軍の監視の目を盗んで計画通り
7名の遺骨の一部を一体づつ密かに奪取した。

ところが飛田氏が、これら遺骨の前の香台に
日本人の習慣として供えた線香の匂いを不審に思った米国人に気づかれ、
この遺骨は米軍に取り戻された。

しかしその時には、遺骨は既にトラックに積み込まれた後であったので
米軍も面倒と思ったのか、奪回した7名の遺骨を全部一緒に混ぜ、
幸いにも近くにあった火葬場内の残骨捨て場に遺棄してしまった。

この時米軍が持ち帰った遺骨本体は、
全て粉砕して太平洋上に投棄されたという風評があるが、
どのように処理されたかは今もわからない。

さて翌24日はクリスマスイブで浮かれて米軍の見張りも手薄になる
と判断した三文字正平弁護士(小磯国昭元首相の弁護人)と
興禅寺市川和尚は、木枯らしの吹きすさぶ夜半、黒装束に身を固め、
飛田火葬場長の案内で目的の現場に潜り込んだ。

しかし骨捨て場の穴は深くて手が届かず、
人が入れるような降り口もない。

思案の結果、火かき棒の先に空き缶を結びつけ苦心して遺骨をすくい取り、
普通の骨壺1個にほぼ一杯分を拾い上げ密かに持ち帰った。

こうして取得した遺骨は、一時人目を避け伊豆山中に密かに祀られていた。
そして12年後の1960年(昭和35年)8月16日、
第一次安保闘争で世情騒然とする中、
ご遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、
日本の中心・臍となる三河湾国定公園三ヶ根山頂に墓碑が建立され、
関係者とご遺族が列席して静かに遺骨が安置された。

三河は日本武士道発祥の地と言われているが、
敗軍の武田軍武将を430年にわたって今も丁寧に祀っている土地柄である。

このような日本人本来の思いやりと
自ら正しいと信じたことは誠実におこなう風土が、
戦犯という濡れ衣を着せられた7氏に対して
永久(とわ)の永住の地を提供したのである。

以来毎年4月29日の昭和天皇誕生日に例大祭を行うとともに、
時折ご遺族が訪れて供養されている。


また同地にはフィリピン方面で戦没された
52万同胞の霊を供養するための聖観世音菩薩像が建立されている。

この観音様にはルソン島サクラサク峠の激戦の戦没者の鉄兜が鋳こまれ、
頭の飾りには比島11の島々を彫りつけ、比島観音と名付けられている。

比島観音建立の母体となった戦車第2師団(撃師団)は、
ルソン島の戦闘で兵員の8割強を失っており、
戦友とご遺族でつくる撃友会では観音様の建立を宿願としていた。

1967年(昭和42年)12月初旬の比島戦跡巡拝に、
たまたま同行していた三ヶ根山大山寺の小笠原芳戒師は、
遺族の切々とした慰霊碑建立懇願の姿に感銘を受け、
同寺の聖地の提供を申し出た。

そして全国の有志に呼びかけた結果、
6千名を超える賛同者により1972年(昭和47年)4月2日
比島観音の建立を見ることができた。

ちなみに台座及び造園は全て戦友の手で造成され、
また納骨堂には戦没者の英霊簿と遺品が収められている。

また比島観音建立を機に、
フィリピンの戦闘に参加された各部隊のご遺族と戦友により
慰霊碑の建立希望が相次ぎ、
今では80基を超える慰霊碑が建てられている。

案内していただいた塩田さんの御尊父様も
「近衛歩兵第一連隊之碑」の名簿石碑に名前が刻まれている。
その前で親子対面!?の記念写真を撮らせていただいた。


先日、この三ヶ根山関連のプログを検索して読んでいると、
明らかに左派系の方が三ヶ根山散策中に、
この戦没者慰霊碑地域に入り込んだ感想が書かれてあった。

彼によると戦前の悪しき日本の亡霊であり、
一刻も早く唾棄すべき異物に見えるらしい。

少なくとも死者に鞭打たない日本人の美徳のかけらもない
そのイデオロギー的主張に、
戦後マスメディアと学校教育等を巧妙に利用した
某国等の情報操作によるマインドコントロールによって、
かくも日本人の伝統、美しい心が喪失したのかと、
今さらながら哀しくなった。

そもそも通常の戦争行為で、
古今東西初めて戦犯をつくった極東軍事裁判(東京裁判)とは
いかなるものであったのか?

現在でも国際法上、国の交戦権つまり戦争が認められている中で、
戦争遂行という国事行為で個人が責任を問われることはない。

残念ながら戦後60年以上経っても地球上から戦争がなくなることはないが、
この間に国が戦争を始めたことで
個人が国際裁判にかけられたことは一例もない。
東京裁判が最初で最後である。

実は、東京裁判そのものが国際法上の違反行為なのである。
ポツダム宣言の受諾は軍の全面降伏であり、
国家間では休戦状態である。

サンフランシスコ平和条約で独立が回復する1951年までは、
GHQによる占領政策つまり作戦なのである。

その作戦を成功させるための目玉、
洗脳宣伝工作として当時のお金で2億円もかけて市ヶ谷台に
極東軍事裁判所という舞台装置を作って一方的に裁いたのである。

人間社会でも、個人間のいさかいは絶えないが、
法の支配下にある限り治安は維持される。

国家間の紛争も国際法の支配が確立している限り、
平和的解決の希望もある。

人間文明の進化には最低限法による正義の確立が必要である。

ところが東京裁判は、
事後法で過去を裁くという訴追免除の法原則を無視している。

また連合国側の証拠はどんな断片でも噂でも
一切証拠を証明する必要なしと定められ、
法審理上の手続きさえ無視してる。

法の平等性からも、人道上の罪を問うのであれば、
一般国民の殺傷を禁じたジュネーブ条約に明確に違反した2度にわたる原爆投下、
10万人を焼き殺した東京空襲など全国の主要都市へのB29の空襲、
停戦後家族のもとにすみやかに帰すことを協定で結びながら
70万人の日本兵を強制抑留し過酷な強制労働で
10万人を死に至らしめることになったシベリヤ抑留なども
問わなければならない。

しかし日本人への贖罪意識を植えるために行われた
この裁判では問われるはずもなかった。

これだけでも裁判が茶番劇だったことがわかる。


12名の裁判官のうち11名は、
法律とは無縁の米軍人等であった。

唯一専門の法律家であったインドのパール判事は、
裁判後その厖大な著作において、
「この裁判は国際法違反であり…全て日本の侵略とする史観は、
歴史の捏造である…勝者の占領政策の手段として裁判が行われた」
と明言している。

米国キーナン主席判事自身も「この裁判は間違いであった」
と終了後述べている。

国際法上も法審理上も法の平等性上も
東京裁判そのものが違反であることを、
文明の向上のためにまず主張すべきである。

そうでないと、ジョージ・オーエンが「動物農場」で示した、
力のあるものがその暴力で世を支配する弱者強肉の世界へ退行するだろう。

国際法の威信を高める意味でも
東京裁判の不当性をまず主張しなければならない。

裁判を強行させたマッカーサー自身が、
占領政策終了後の1951年(昭和26年)5月3日の
アメリカ上院軍事合同外交委員会で

「Their purpose,therefore,in going to war was
largely dictated by security」
(彼らが戦争に突入した主たる動機は、自衛の為だった)

と証言、世界の主要メディアもこれを報じ、
今では国際法上も国際関係論上もこれが世界の常識となっている。

ところがマッカーサーのこの証言が
日本で大々的に報じられることはない。

また、この裁判による偏向歴史観で利益を得る特定の国家やグループ、
個人によって、常にメディア等を通じこの自虐歴史観が強化され、
日本人の戦後の自縄自縛のマインドコントロールががんじがらめになっていく。

このマインドコントロールが解かれない限り、
戦犯という国際関係史のスケープゴートが
名誉回復することはないであろう。





池田整治のメルマガ・心のビタミン
読者購読規約
powered by まぐまぐトップページへ
 

フィード