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2007年 9/9 長篠合戦跡地を訪ねて・・・その二

1575年5月8日、武田軍は遠征軍の主力で猛攻を開始する。
しかしながら長篠城の貞昌以下わずか500名の守備兵はよく持ち堪える。

ただしいくら善戦してもわずか500名では限界がある。
貞昌は救援の使者として鳥居強右衛門を岡崎の家康更に信長のもとに向かわせる。

信長・家康はかねてからの計画通り5月17日には設楽原へ出陣し、
長篠城救援の姿勢を見せる。

伝令の役目を無事果たしたものの、
一刻も早く死守する城兵に救援が来ることを伝えたい強右衛門は
引き留めるのを振り払い城に帰ろうとする。

そして城内への帰途、重囲していた武田軍に今度は捕まる。
この時、
援軍が来ないことを伝えたら助けるという武田軍の誘いに乗った振りをして、
「援軍来たる!」と叫び磔にされる。
今ではその地に三河武士の鏡として強右衛門の碑が建てられている。

設楽原へ到着した織田・徳川連合軍約3万8千名は、
長篠城から僅か約3km手前の、
北から南に流れて豊川に注ぐ小さな連吾川の西側台上に陣をしき、
陣前に馬防柵を念入りに作り始めた。

戦力的に優勢な織田・家康軍が防勢の態勢をとったわけである。

この状況を察知した武田軍は軍議を開く。
信玄からの古将達は本国への帰陣を主張するが
勝頼付きの新武将達は決戦を主張し意見が分かれる。

信長を討ちたい勝頼が最終的に決戦を決める。

この時、織田・徳川側は、
通常の心理戦なら自軍の強さを喧伝して相手将兵の士気低下を謀るところを、
逆に武田軍を恐れて防勢に入っていることを流布する。

準備した有利な戦場に敵を誘い込む見事な情報戦も行っていたわけである。

改めて医王寺山から見ると、
長篠城は距離にして僅か約600mほどの鼻先である。

僅か500名の長篠城を主力で10日間攻めても落とせず足止めされている。
若い勝頼は激怒が籠もり、
攻撃行動を衝動的に行いやすい心理状態であったと思われる。

実はここでも奥三河独特の地質が戦いに決定的な影響を及ぼしている。
長篠城は豊川(寒狭川)と宇連川の交点の崖の上に立つ。

豊川は中央構造体の上を走り崖は急峻で登れない。
川方向からの攻撃は不可能である。

通常防御は受動的に全面を守らなければならないため、
ただでさえ少ない兵力を分散配置しなければならない。
ところがこの地形特性により守備正面が半分ですむ。

また脆い地質にもかかわらず奥三河が複雑な山地を形作っているのは、
大規模な火山活動から溢れた厖大な溶岩がそのまま固まっているからである。

固い溶岩の塊りの層と脆い石灰岩層が
複雑に綾なしているのが奥三河の特性なのである。

長篠城はこの溶岩の上に立っている。
だから固くて、坑道を掘って城の地下から攻撃する
という攻城の基本戦法ができなかったのである。

しかも崖以外の北面は準備できた3ヶ月間に必死で堀を構築している。
こちらは連吾川と同じく脆くて土手は登りづらい。

しかも守将奥平貞昌はもともと山家三方衆である。
この三河の地質を熟知している。

家康も、3ヶ月準備すれば2週間程度は守り通せる
と読んでいたと思われる。

あとはこの要衝を保持している間に、
戦術的にいかに有利な体勢に持っていくかだけである。

なお、信玄とともに幾多の戦陣をくぐりぬけてきた古将達は、
翌日の戦いでの武田軍の敗戦、戦死を予期し、
本陣内の井戸で最後の水杯を交わしたといわれる。

この井戸は今でも史跡「杯井」として医王寺の境内に残っている。


5月20日、武田軍は長篠城の包囲を解いて一部の長篠城監視隊を残し、
主力は豊川(寒狭川)を渡り設楽原へ出陣する。

貞昌は約2週間武田軍の猛攻を凌いだのである。
そして決戦でも重要な役割を果たすことになる。

一方、ここでも勝頼は兵力を割かざるを得なくなる。
いわゆる用兵において戒められている戦力分散である。

逆に信長・家康は、長篠城貞昌隊を焦点に見事に戦力を集中発揮している。


設楽原に進出した武田軍は、
連吾川の東岸の台地上に敵陣を見下ろせるように布陣した。

今ではその陣地の一角に設楽原歴史資料館が建っている。
その屋上から復元されている馬防柵の陣地を見れば、
医王寺山の勝頼の本陣地から長篠城を見ていた感覚とが重なった。

つまり、眼下わずか五百メートルにも満たない織田・家康陣地に
一気に突入できるような錯覚をおぼえるのである。


実はこの時、信長・家康軍は、決定的な一手を打っていた。

前夜から密かに酒井忠次に命じ、
夜陰に乗じて豊川を渡り大きく南に迂回、
長篠城を南から抑えることのできる鳶ヶ巣山方向に向かわせていた。

そして夜明けとともに武田軍の長篠城監視陣地を
背後から攻撃させたのである。
これに呼応して貞昌隊は打って出てついに完全に包囲網を破る。

酒井隊の迂回浸透攻撃は、
武田軍の退路そして兵站線を遮断する
という決定的な戦術行動である。

これが成功したのも貞昌の孤軍奮闘の賜であり、
この戦機を勝機とした信長の戦術眼である。

酒井・奥平隊は引き続き後方から攻撃を続行、
設楽原決戦の勝利を決定的にした。

実は織田・家康軍の軍議の場で、
酒井忠次はこの退路遮断の迂回攻撃を提言していた。

ところが信長は一笑に付して取り合わなかった。
ところが軍議終了後、密かに忠次を呼んで実行を命じた。

これは武田の間謀に悟られないためであり、
また敵を騙すにはまず味方からの鉄則通りの冷静な指揮活動でもある。

同じ設楽原の決戦のための軍議、
指揮活動でも両軍の活動はあまりに対照的である。


長篠城から連吾川東側台上の勝頼の本陣地までの距離はわずか2キロ余り。
早朝の静粛を破る思わぬ長篠城方向からの酒井隊の喚声が勝頼まで届いた。

戦国武将なら一瞬にして退路遮断されたことに気づかないはずはない。

しばらくためらった後、
勝頼はこれまでの憤怒を一気に爆発させるがごとく
予定通り全軍に猛攻を命ずる。

この瞬間、武田軍引いては武田家の滅亡が決まった。

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北海道の四季(写真)パート2 http://groups.msn.com/hearthul2006





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