池田整治のメルマガ・心のビタミン
読者購読規約
powered by まぐまぐトップページへ
 

2007年 9/8 長篠合戦跡地を訪ねて・・・その一

長篠合戦跡地を訪ねて

6月7日、設楽原をまもる会の海野さんに
長篠合戦の史跡を案内していただく。

長篠合戦と言えば、織田信長・徳川家康連合軍が
武田騎馬軍団を馬防柵と鉄砲で破り、
信長の天下統一への大きなステップとなった
戦(いくさ)であることは知っていた。

しかし次のような疑問を持っていた。
・戦力劣勢な武田軍が、なぜ本拠地の甲斐を出て奥三河まで攻め込んできたのか。
・火薬を銃口から手込めする火縄銃で、本当に騎馬軍団を壊滅できるのか。
・長篠城攻防戦と設楽原合戦の関係は?


海野さんは、豊川駐屯地の後援会役員をされている縁で知遇をえて、
今回幹部教育の一環として現地を案内していただいた。

先祖代々長篠の井沢に住まわれ、
滝を飛躍遡上する鮎を竿の先につけた網ですくう
昔ながらの珍しい漁法で有名な鮎滝も管理されてる。

今でも老夫婦お二人で稲作農家を営まれ、
伊勢神宮や明治神宮へ献納するためだけに蚕も飼われている。

このような養蚕家は愛知ではもう4軒しか残っていないらしい。
また設楽原をまもる会の副会長もされていて、
長篠の生き字引的な名士である。

まず、武田勝頼の本陣が置かれていた医王寺に案内していただく。
武田軍が本拠である甲斐の国を出て
なぜここに着陣しなければならなかったのか。
そうなる経緯を簡単に述べておきたい。

群雄割拠のこの時代の戦略的なポイントは、「遠交近攻」。
つまり隣国のライバルを倒す場合には、
そのライバルの周辺の武将を味方につけ、
ライバルの戦力を分散し身動き取れなくなったところを、
こちらは戦力を集中して一気に敵の本陣を攻略するという戦略である。

NHKの大河ドラマの山本勘助でもおなじみの
戦国最強軍団と言われた武田軍団を率いる武田信玄は、
近畿の武将や本願寺勢を反信長連合でまとめ、
信長がこれらへの対処で身動きがとれないところを
一気に東海道方面から京都へ上洛する軍を起こした。

つまり、三河地方に織田軍が援軍できないようにして、
まず家康を三方ヶ原の戦いで一蹴した。

そして、いよいよ尾張の織田攻めから京都へというところで、
無念にも病に倒れ夢敗れた。

もし病死しなければ信玄が天下を統一していたかも知れない。

ところが息子の勝頼の時には、
信長が近畿の反信長武将や本願寺勢を逐次打ち破り、
天下の形勢は信長に傾き初めていた。
また勝頼には、信玄のように反信長で他の武将を纏めるカリスマ性もなかった。

地政学的に見ると、長篠は、信濃、駿河、三河の三大勢力の接点である。
武田からみれば長い山地を抜けて三河平地に進出する際の
足がかりになる緊要地であり、
また家康から見れば甲斐勢及び駿河勢の出口を抑える奥三河の要衝である。


一方、大勢力圏の接点に位置する地方武将にとっては、
厳しい戦国の時代を生き延びるためには、
常に情勢判断してより強い武将の勢力圏に入らなければならなかった。

奥三河は、1500万年前の大火山活動と
中央構造体の激しい地殻変動によって形成された複雑な山々が連なっている。

戦国時代、これらの山々と深い谷に挟まれた小さな平坦地を持つ山間部には、
先祖伝来の地に館を構え小城を築いている小土豪達が居住していた。

その中で同盟関係や血縁関係を保ちつつ
穀倉地帯や交通の要衝を抑えて勢力を拡大していったのが
田峯(たみね)城の菅沼氏、長篠城の菅沼氏、作手城の奥平氏であり、
この有力土豪の三氏を総称して「山家三方衆」という。

彼ら土豪達は家門の存続を図るため、
侵攻してきた権力者に対し何世代も去就を繰り返さざるを得なく、
一族が二派に別れて争いながら、
その都度加担する権力者に対し人質を差しだすことになっていた。

織田・家康、武田等戦国武将にとっても、
かれら山家三方衆をいかに味方につけるかが
この要衝の地を抑えるために極めて重要であった。


長篠合戦直前の奥三河の状況を要約すると次のようになる。

1508年、駿河の今川氏親に属する菅沼元成が長篠城を築く。
今川家の上洛の足掛かりと言えよう。

ところが1560年、織田信長が上洛中の今川義元を桶狭間で破ると、
翌年城主菅沼貞景は今川氏を見限って家康に従う。

そして1569年には家康に属して今川氏の掛川城を攻め天王山で討ち死にしてる。

更に1571年武田軍に攻められ降参し、
彼ら山家三方衆は今度は武田信玄に属した。
翌1572年には武田軍に従って三方ヶ原で家康と戦っている。

1573年、信玄は三河の野田城を落とすも病状が悪化したため長篠城で休養。
本国信濃に帰る途中の三河から伊那路へかかるあたりで病死。

この機に乗じて、家康は長篠城を奪回。
この際、城主菅沼正貞は家康に内応したとして武田軍に捕らえられている。

一方、武田軍に属していた奥平貞能、貞昌親子は、
1573年8月武田を見限って一族郎党を率いて作手を退去、徳川へ走る。

この時貞能が家康に出した条件が
家康の長女・亀姫と貞能の長男貞昌(後信昌)との婚約や領地加増等である。


この状況に激怒した武田勝頼は、
奥平氏の人質である貞能の二男仙千代達を処刑した。

この時の若干13歳の仙千代の見事な切腹に関し、
その手本を自ら示した従者である奥平氏の家老黒谷甚九郎の
武士としてのあっぱれさが哀しくも感動を遺し、
今でも祠として祀られている。


1575年2月家康は、なんとこの奥平貞昌(当時21歳、後の信昌)に
長篠城を与えたのである。

貞昌は武田軍が侵攻するまでの3ヶ月間で必死に城郭を改善し防御力を強化する。

これは織田・徳川側の見事な心理作戦でもある。
信玄の跡を継いだ2代目勝頼には、偉大な父親を超えたいという強い心理が働く。

そうでなくとも、もともと大陸、高句麗の騎馬軍団の末裔といわれる武田軍団は
各武将毎の独自性が強く団結力に問題がある。

勝頼としては、2代目として軍団を統率するためにも、
より積極行動をとらざるを得ない心理状態であったに違いない。

また前述したように信玄の意図した反織田包囲網は逐次破られ、
時代は織田へと流れつつあり、
時間の経過とともに武田軍の勝ち目はなくなっていく。

このため織田・徳川にとって武田と無理に決戦する必要はない。
武田軍団の主力が健在する限り本国である甲斐攻めは労あって効はない。

ただし奥三河に武田軍の主力をおびき出して叩けば極めて有利となる。

これは兵站線の問題である。
軍団が進むためには、本拠地から糧食や弾薬、馬の飼料など
膨大な物資の輸送を常時確保しなければならない。

この道を兵站線という。
本拠地に近ければこの負担は軽減し、
遠くなると膨大な負担となる。

例えば荷役として道路沿いの住民などを雇うがこの賃金だけでも厖大となる。
遠征になればなるだけ経済力が必要となる。

万一、兵站線が敵に遮断されると止血状態となり
その先の軍団の戦力はやがて枯渇する。

だから上洛のような遠征の場合は、
着実に侵攻路の地域を自国領化して進むわけである。


信長・家康は、これらの戦略眼に基づき、
はやる勝頼に長篠城をエサとした巧みな心理戦をしかけたわけである。

勝頼の性格からすれば裏切り者の奥平貞昌が立てこもった長篠城を一気に落とし、
更に信長を直接討つ機会を持ちたかったのであろう。


このような経緯で、武田勝頼が長篠城を指呼の間に見下せる医王寺山に、
1万5千の主力の本陣を構えたわけである。

ただ本国に上杉謙信に対処するため1万の兵力を残してこざるを得なかった。
信玄とは逆に信長による遠交近功の戦略にいたされたわけである。





池田整治のメルマガ・心のビタミン
読者購読規約
powered by まぐまぐトップページへ
 

フィード