2007年 9/10 長篠合戦跡地を訪ねて・・・その三
織田・徳川軍は5月17日に連吾川の西側段丘に着陣以来、
四日間かけて徹底した地形の利を活用した防御準備をしていた。
上述したように、
もともと奥三河は火山礫岩層でかつ中央構造体の圧縮変成岩帯でもあり、
地質的に脆い。
しかも連吾川沿いの湿地帯は水田が発達しており、
設楽原の決戦の行われた5月21日は今の暦では7月9日にあたり、
満面に水を湛えていた。
人も馬もまともに進めるのは水田の狭いあぜ道に限られる。
更に泥田などをやっと越えて連吾川に入ると
脆い土手が崩れてなかなか向こう岸に上がれない。
やっと這い上がって柵に近づくと
1千丁~3千丁といわれた鉄砲が火を噴く。
その火縄銃は、銃身が長いため精度が極めよく
100m程度なら確実に命中する。
柵に依託して狙いを確実にして、
徒歩兵は無視し騎乗武将のみを狙い撃ちしたのである。
ただし3段構えで交代して連続射撃をしたというのは、
戦いを知らない作家の創作である。
湿田と連吾川と馬防柵で動きの緩慢となった大きな目標の馬と
その騎乗武将に全火力を集中発揮したのである。
実際に武田軍の陣がしかれた連吾川東側段丘から
騎馬武将が進んだであろう経路を馬防柵まで歩いてみた。
丘を下ると低地は今も水田であり、
あぜ道を右往左往しながら進まざるを得なかった。
コンクリート護岸となった連吾川でも
川底に下りるとなかなか上がりづらかった。
さらに水田を縫ってようようの体で馬防柵にたどりついたが、
3千丁の鉄砲で集中的に狙われたら
武田軍の騎馬武将は壊滅したに違いないとあらためて実感した。
戦力は機動力と火力の相乗といわれる。
両軍の戦力を静的に分析すれば、
火力優位の織田・武田軍と機動力優位の武田軍の戦いであった。
それを織田・徳川は主動的に連吾川沿いに戦場を選ぶことにより、
自己の優位な火力をさらに増し、
敵の優勢な機動力を封殺したのである。
また主力が激突する前に退路遮断されている武田軍は、
時間の経過とともに、あるいは無理な攻撃を続けるほど、
壊滅への坂道を転がり落ちる態勢となっていた。
昼過ぎになると武田軍の劣勢は明白となり、
織田・徳川軍もまず中央隊が柵から討って出る。
実はこのときがもっとも激しい戦闘であり、
双方の損害も最も多く出た。
指揮官たる騎馬武将を失い、
衝力の尽きた武田軍はじりじりと後退を始め、
武田軍の敗戦が決定的になる。
せめて大将の武田勝頼だけは無事国元に落ち延びさせたい
との思いで馬場信房が最後の力をふりしぼり、
銭亀付近の殿戦で奮戦する。
やがてその信房が果て、激しい戦いもようやく幕を閉じる。
朝からのわずか10時間足らずの戦闘で、
武田軍1万人、織田・徳川軍6千名が戦死したといわれる。
ただし、織田・徳川軍の戦死者がほとんど名もなき徒(かち)兵であったにの対し、
武田軍は主要な武将のほとんどが失われ、武田家滅亡の原因となった。
鉄砲と馬防柵ばかりが強調して伝えられるが、
信長・家康の見事な作戦指導の勝利であった。
単純化すれば、
①敵の全衝撃力を吸収し動けなくする。
特に予備隊を早期に使わせ相手の打つ手をなくす。
②相手に打つ手がなくなった時に、
一気にこちらの予備主力で決定的要点を集中攻撃する。
となる。
またこの作戦指導を成り立たせるために、
戦場の選定、欺騙等による敵の誘導、敵の衝撃力に耐える防御準備、
退路遮断、大きな予備の保持、戦機を喝破する決断力などが重要となる。
では、武田軍に勝機はなかったか?
はっきり言って、信長の遠交近攻の戦略にかかり
長篠におびき寄せられた時点で武田軍の勝利はなかった。
信玄が死んで国元に帰った時点で、
組織のトップとして、
いかに武田家を存続させるか、
冷静に情勢判断すべきであったと思われる。
その点、信長・家康が長篠に救援に来た時点で、
信玄以来の古将達が国元への帰陣を主張したのはさすがである。
山国で攻めずらい甲斐で内部充実を図れば、
伊達家のように有力な外様で生き延びる可能性はあったと思われる。
長篠から引き上げるときに万一、織田・徳川が攻撃してくれば、
熟知した伊那路の山間の隘路を利用した戦いに引き込める。
21日朝、連吾川東側陣地で長篠城方向からの喚声を聞き、
退路遮断されたと悟ったときに、
騎馬軍団の特性を発揮して一気に伊那路方向に転進する道もあった。
状況が急変し組織が危機的状況に陥った時に、
いかにその窮地を脱するかはトップの全責任である。
またそのためにトップとしての日常の特権も存在意義もある。
眼前を背走すれば、織田・徳川軍も追走する可能性がある。
そうすれば三方ヶ原の戦いの再現も可能となる。
三方ヶ原では、劣勢の家康軍が三方ヶ原の南端に崖を背に
決死の鶴翼の陣(横広がり)で待ち受けた。
その眼前を武田信玄軍は家康軍を無視し
悠々と魚鱗(菱形の密集)の陣形で背を見せて三方ヶ原の北側に向かう。
家康は勝機とばかりに全軍に総攻撃を命ずる。
すると武田軍は全員が一気に回れ右をして猛烈な勢いで突進してくる。
家康軍は壊滅し、
馬上糞の人生訓の伝説を残し、
家康は単騎ほうほうの体で浜松城に逃げ帰る。
もし、織田・徳川軍が追いかけてくれば、
準備した有利な戦場を放棄することになり、
鉄砲の集中発揮もできず、
機動力の優位な武田軍の勝機は高くなる。
追いかけてこなければ、
そのまま帰国して軍団を温存、
上述の生き残りの施策が可能となる。
いずれにせよ組織はトップで決まる。
二度の決定的な状況判断時に、
組織の発展・利益を謀るべき立場のトップが、
自己の固定観念に囚われて組織の命運を断つ決心をしてしまった。
甲斐の武田軍は、
その程度の状況判断力のトップしかもてなかったため、
歴史から見放された。
静粛さの戻った設楽原に、
やがて小屋久保に避難していた住民が帰ってくる。
そして戦場のすべての死者を丁寧に葬る。
今でも設楽原をまわるといたるところで
よく手入れされた小さな墓石群を見ることができる。
戦死した武田軍のすべての武将を、
430年の時を経た今も地元の方々が懇ろに祀っているのだ。
特に、設楽歴史記念館のある武田軍陣地跡の信玄塚では、
毎年盆に「火おんどり」という
死者供養の火祭りが連綿と伝え行われている。
奥三河の人々の昔から変わらぬ深い人情、人としてのやさしさ、
思いやりをここにも見ることができる。
最後に、海野さんの家で蚕を見せてもらう。
ちょうど上がって繭棚に移し替える忙しい日であった。
にもかかわらず海野さんは、
蚕を奥様に任せて約束通り説明にきて下さったわけである。
改めてご夫婦に感謝の言葉を述べた。
蚕と言えば、私が小さいときも愛媛の実家で飼っていた。
農家の貴重な現金の副収入源であった。
しかし海野さんは、伊勢神宮等に献納するために飼われている。
上納する時は、この春訪れた古代ロマンの薫る伊良湖岬から
船で伊勢に運ぶとのことである。
繭をつくり始めた蚕の写真を撮りながら、
太古から育まれてきた奥三河の人々の深い人情と、
その基盤の上で栄華盛衰を繰り返してきた武将達のもののあわれが重なって、
奥三河のやまとごころを感じた。
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