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2007年 6/22 楠木正成ゆかりの地を訪ねて・・・その一

4月22日、大阪府泉大津市から豊川への帰り道、
楠木正成ゆかりの地を訪ねる。

普段は、名神、東名高速道路を使って一気に帰るが、
今回は、一般道で金剛葛城山脈を横断する奈良経由を使った。

お陰で、途中の天野山金剛寺、観心寺、
そして千早赤坂の棚田を撮影することができた。

まず、泉大津市から国道170号を奈良方向に向かい、
河内長野市の入り口にある金剛寺に立ち寄る。

河内長野市は、南に和歌山県、東には奈良県と接し、
大阪府の最も東南に位置している。

ここまで来ると金剛葛城山脈にすっぽり入る。
豊かな自然が残り、かって活躍した楠木正成のおもかげを感じることができる。

その中で金剛山は大阪府の最高峰で、
役行者(えんのぎょうしゃ)によって開かれた信仰の場所である。

また、南隣の和歌山県からは、高野山へと通じる。


金剛寺は、天平年間(729~49年:奈良時代)に聖武天皇の勅命によって、
僧の行基が開創した。

下って弘仁年間(810~24年)、弘法大師空海により、
真言密教を広めるため、高野山の金剛峰寺に相当する聖域として選ばれた。

その後400年近くの星霜を重ねるうちに寺は衰微したが、
平安末期、高野山の阿観上人が来て、永万元年(1165年)に
後白河法皇と皇妹八条院の帰依を受けて復興し、勅願寺となった。

この八条院に仕えた女官の一人浄覚尼が、阿観上人の後を受けて、
金剛寺の第2代になった時、高野山が女人禁制であったのに対し、
当時から女人の参詣を許し、以来、女人高野と呼ばれるようになった。

南北朝時代初期、正平9年(1354年)10月、
後村上天皇が、吉野を出てから観心寺に移るまでの6年間、
行在され南朝の祈願所となった。

その後、文中2年(1373年)まで、
長慶天皇、後亀山天皇の3代20余年にわたり行在所となった。

また、捕らわれていた北朝の三上皇(光厳、光明、崇高)が
これに先立つ正平9年(1354年)3月行幸になり、
以来4年間御所(幽閉所)となっていた。

図らずも敵対する南北朝の行在所が同じ境内に所在したわけである。


境内には、貴重な重要文化財が数多く残り、
当時の御在所(部屋)も上がって間近に拝見することができる。

これらの中で、金剛寺では、室町時代に造られたという
枯山水の庭園のみ写真に撮った。

武士の台頭という新たな時代に翻弄され、
南北朝に別れて苦悩したかっての天皇の方々と
同じ視線で見ることができるのだ。

きっとこの庭園を見ながら心を癒されたことであろう。


金剛寺を出てからは、国道170号から、さらに国道310号を東に進み、
河内長野市の東端にちかい、観心寺に立ち寄る。

ここまで来ると千早赤阪村は目と鼻の先である。
この地点は、弘法大師に関係する京都の東寺と高野山を結ぶ道筋の中程にもなる。


観心寺は、文武天皇の大宝元年(701年)、
修験僧の祖と言われる役小角(えんのおづぬ、別名は役行者)によって開かれ、
初め雲心寺と呼ばれていた。

その後、平安時代の初め、大同3年(808年)に
弘法大師空海が当寺を訪ねた時、境内に北斗七星を勧請された。

今でもこれにちなんで日本で唯一と言われる「星塚」が境内に残っている。


弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、
自ら如意輪観音像を刻んで安置し、
真言宗に改宗して、「観心寺」と寺号を与えた。

なお、観心寺の実質的な開基と見られるのは、
空海の一番弟子にあたる実恵(じちえ)と言われている。

また、観心寺は、楠木正成一族の本拠地でもあり、
正成の菩提寺として、あるいは南朝ゆかりの寺として知られている。

正平14年(1359年)には、後村上天皇の御在所となっている。


お寺の前には、馬にまたがった楠木正成像が建っている。
また、本堂である金堂の前は広いスペースがあり、
パノラマ的に全体を見渡すことができる。

時間があれば、紅葉の季節にでもゆっくり訪れたいところである。

ここでは、正面の門と、楠正成の銅像のみ撮影し、
境内ではゆっくりと正成そして南朝に思いをはせた。

北海道の四季(写真) http://groups.msn.com/jjt8khvnlvgq2ipf5spd2vq9r4
北海道の四季(写真)パート2 http://groups.msn.com/hearthul2006





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