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2006年 9/4 真夏の花火の思い出…蒲郡花火大会の撮影にて(その一)

7月最終の日曜日、蒲郡市の花火大会の撮影に行って来た。
蒲郡まつりは、毎年7月の最終土日に行われる。
その目玉が、30日、日曜日に行われた納涼花火大会で打ち上げられた
直径90cmの花火「正三尺玉花火」三発。

この花火は、「太平洋岸地区最大級」と称され、
海上にある台船から打ち上げられる。
開いた時の直径はなんと650m。
「ドーン」という大音響とともに夜空一杯に開いた
種類の異なる3つの大輪の花火に感動した。

今回は更に初めて試みられた、4号雷を10発カウントダウンに打ち上げた後、
「尺玉(10号玉)10発一斉」と「幅400mのスターマイン」を使っての
3度のワイドスターマインも目玉であった。

この10号玉10発一斉は、一斉に曲導が立ち上がり、
両端を八重芯菊で飾った10発の芯入り菊がまるで光の屏風のように
目前に広がり何とも言えない躍動感溢れる素晴らしさであった。

但し、残念ながらこれらの「構成」を知ったのは、花火を見終えた後のことである。

今年初の師団中級陸曹集合訓練の担任実施、
駐屯地納涼祭りなどが前日土曜夜まで続き、
下調べを十分行っていなかった。

只、「夏に1回は感動的な花火を1枚は撮っておきたい」と思い、
先月埼玉の家族のもとに帰るときに見た豊川駅構内のポスターの
「蒲郡花火正三尺玉3発」に惹かれて行ったのだ。

ちゃんと構成など知っていれば、
それまでの打ち上げ位置から大きく左に90度近くレンズを振った位置から
急に揚がった目玉の1発目の三尺玉を撮り損ねることなく、
また近すぎて広角レンズでさえも画面からはみだすようなこともなく、
もっといい写真が撮れただろうに…いつものことながら次回…来年の参考にしよう。

勿論もっとも重要な「撮影場所」については、頭の中ではいろいろ考えていた。

一番撮りたかった構図は、「海に浮かぶ竹島の上空に傘のように広がる大玉」で、
この場合、会場から竹島の延長線上遙か9km手前にある2月に行った
御津山山頂が考えられる。

又、本会場から1kmほど離れた三河湾に浮かぶ景勝地の竹島に橋で渡ると、
三尺玉そのものを撮るには最適だが、
本会上の通常の打ち上げ花火の撮影には遠すぎる。

一方、本会場の「竹島埠頭」は、
打ち上げ場所となる浜町緑地公園埠頭の隣の埠頭であり、
身近に花火を体感できる。

足(車)がないので、御津山ならママチャリ、蒲郡なら電車となる。
御津山にママチャリで行って一発勝負の撮影ができなければ全くの無駄足となる。
そこでいいアングルで確実に撮れることを確認してから次回以降行くことにして、
とりあえず今回は電車で蒲郡駅に行き、周辺で適地を探す予定であったが…。

1時間ほど前に駅を降りるともうすでに人人人の波。
後で知ったが13万人の人出だったらしい。
自然の流れで駅南口から徒歩5分ぐらいで「竹島埠頭」の観覧場所に入ってしまった。

こうなれば、三脚で迷惑をかけないように埠頭の一番端まで進んで
撮影するしかない^^。

…結局、ここで撮ったが、28mm広角をもってしても
三尺玉もワイドスターマインもその一部しか撮れなかった。

しかしながら、お陰で迫力ある花火の競演を堪能することができた。
また、潮騒の香りと、頭上に開く花火の競演に歓喜している家族連れなどを
眺めるうちにこれまでの人生で一番心に残っている花火の情景を
懐かしく思い出すことができた…。




あれは長男英人が三歳ぐらいであったろうか、盆で帰省したときに、
実家の愛媛県最南端の一本松町から三つ町が松山寄りとなる
内海村柏の花火を家族3人で見に行った。

柏は、足摺宇和海国立公園の北端付近に位置し、
小さな自然の潟を利用したお気に入りの自然公園の一つである。

15歳で中学卒業後、郷里を離れて初めての少工1年の夏休み帰省時、
中学時代の女子同級生と卒業後最初で最後に会った場所でもある。

この公園から歩いて数分の所に妻の叔母が嫁いだ木下家がある。
妻の生母が妻出産後4日目に産褥熱で急死し、
その時お父上が柏の小学校で教師をしていたので、
急遽叔母自らは学校に行くことを諦めて妻の子守に来てくれた。

父上とは長兄と末妹の関係である。
その甲斐甲斐しさを木下家のご母堂が惚れて、
木下家の跡取りの嫁に、となった。

人生に起こることは全て必要必然ベスト言うが、全てが意味あって繋がっている。

いずれにせよ和美叔母は、妻にとっては、
「和美姉ちゃん」と呼んでいるが育ての母のようなものでる。
逆に叔母から見れば、妻は生まれたときから手塩にかけた実の娘のようなものである。

中学の恩師の紹介で妻と初めて会った日の翌日、
一本松町と内海村の間にある城辺町の小さな喫茶店で
和美叔母と一人娘の当時小2の美涼ちゃんと4人で会った。

叔母にとっては、手塩にかけた実の子のような貴子がどんな人と結婚するのか
心配であったに違いない。

私も慣れぬ三つ揃いのスーツを着て、緊張して読んでいる本などの話をしたが、
目の前で美涼ちゃんが当時はやりのインベーダーの画面を楽しそうに
覗いていたのを印象的に覚えている。

後に妻からお伺いした評価は「写真より年に見えるね。固い話だったね」^^;。

私が田舎の農家の跡取りになったこともあり、盆と正月は必ず帰省した。
特に長男が生まれてからは、田舎は愛媛の実家であることを体感させるためにも
努めて多く帰省し、必ず柏の叔母の家にもお伺いした。

妻にとって叔母の元に行くのが里帰りのような感じだったし、
私も妻と同じ味付けの料理が美味しくてご馳走になるのが楽しみでもあった。

叔父は、外航船の船長をしており、なかなか会えなかったがたまに帰省が重なると、
自分に男の子供が欲しかっただけに英人達を実の子のように可愛がって
釣りなどにも連れて行って頂いた。
だから子供だけでお泊まりした事もある。

そして、あの花火大会の夜。
小さな村の小さな公園の小さな花火大会であったが、
それだけに座った芝生の頭上で花火が炸裂、迫力満点であった。

その帰り、長男が、屋台で買って貰った金魚入のビニールを大切に持っていたが、
人混みに押されて叔母と接触したものか、
路上に落としてしまって金魚もわからなくなってしまったらしい。

その途端、長男が「このくそばばあ!!」と怒鳴ったらしい。
優しい性格だと思っていた長男のしかも生まれてはじめての強烈な言葉に、
叔母は「英君にくそばばあと言われた・・」と後々まで話していたものである。

それ以来、頭上で響く花火を見るたびにその時の困惑していた叔母を思い出す。
叔母の一粒種の美涼ちゃんはとてもおとなしい子供なので、
あるいは、孫のような男の子の強烈な自我の芽生えへの驚きかだったのかも知れない。




又、この7月は、とても意味ある月でもある。
実家の隣家でもある母の出里のいとこの長男の一成君がこの7月結婚した。
私にとっては叔父であり、一成君にとっては祖父が築いた池田農園の
跡取りとして嫁を迎えた訳である。

本来なら私も隣で農家の跡取りをしていてもおかしくない。
もし私が大学卒業と同時に跡を取っていれば、
一成君と同世代の英人も田舎で嫁取りの時期でもある。

私なりにEM有機農法での農業再生を考え、10年ほど前に小論文を作成し、
田舎の町長さんなどに配布した。

意外に母が素直にEM農法に切り替え、美味しい野菜という事で評判になった。
母にとっては、父亡き後、安心で美味しいEM有機農法野菜を作って
孫に送る事が生きがいとなっていたのだ。

しかしながら、帰ろうにも人口4000名の高校もない田舎町で
農業収入だけではとても子供4人の学費まで稼ぎようもなく、
「退官したら帰るから」と言うことで今まで続いている。

3年前の正月明けに、柏の叔父がそれまでの航海の無理がたたって帰らぬ人
となった時には、長男を代表で帰省させ母と二人で弔問・お手伝いに行かせた。

そして3ヶ月後、
その母が埼玉の英人達孫に手を握られながら亡き父の元に旅立った。

現在、埼玉の我が家は、長男がやっと来年大学を卒業、
4番目の長女真菜はまだ小3。
とても空き家となっている愛媛の実家に帰って農業をやる状況ではない。

だが、日本の農業、健康、環境等の問題を解決する第一歩は、
農地の有効微生物の復活・活性化にあると今でも確信している。

その思いを込めて一成君達新たな農業起業家に
かって田舎に送った拙稿を改めてプレゼントしたい。





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