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2006年 5/30 春爛漫、穂の国の春祭りにて・・・その3

時計を見ると8時に近い。
急いでうなごうじ祭りのメイン会場、牛久保八幡社に向かう。

牛久保八幡社は、奈良時代に創建され、
しばしば飢饉に見舞われた人々の心の拠り所として
特に仁慈の社としてあがめられてきた。

天下の奇祭として有名な「うなごうじ祭り」は、
この神社の若菜祭りの事である。

「うなごうじ祭り」の由来がなかなか日本的でいい。
戦国時代の領主と領民の関係を伺う事ができる。

明応年間(1492年~1501年)、牛窪城主の牧野成時が功成って
今川氏親(義元の父)に吉田城(豊橋)築城を許された。

そのよろこびを分かち合うべく領民を城内に呼んで祝いの酒をふるまった。
領民達も領主様とともに喜んでしたたか飲んだに違いない。

かなり酔っぱらって千鳥足で寝ころびながら家路についた。
そのユーモラスな様子が祭りに取り入れられた。
酔っぱらって路上に寝転がる様子がハエのウジ虫に似ており、
この地方の方言で「うなごうじ」と言われた。

牛久保(旧牛窪)の町は1区から8区まである。
それを上若(1~3区)、大中(4、5区)、神兒(6、7区)、
寺町(8区)の4組に分け、各会所からそれそれの出し物の行列を組んで
八幡社に集合する。

それらが合体して笹踊り、その一部のやんよう神、山車などの大行列となって、
まず土曜日に八幡社から西北約1.2kmのところにあるお旅所の天王社に、
ご神体である獅子頭を迎えに行く。

更に翌日曜日そのご神体を天王社に返してくる。
つまり土日かけて2往復するわけだ。
祭りのメインと言うのは、日曜日に最後に八幡社に帰る時の事である。

行列の先頭は、頭部に瓢箪がある大きな御幣で、なんと20~30kgもある。
屈強な若者がかけ声とともに持ち上げてバランスをとりながらひょいひょいと
数m進む。

これを羽織袴の盛装の行事役の若者が扇子で示す場所におろす。
おろすとすぐにもっていた部分を他の者が布で拭いて清める。

先頭がこのように尺取り虫のごとく逐次進むので行列はすこぶるのんびり進む。
もっとも休み休みでもいかないと体力が続かないだろうが…。

行列のメインは、寺町の笹踊りで、金色のきらびやかな錦に身を包み
太鼓を抱えた若者3人が独特の囃しとともに踊りを披露する。
これもかなり激しい踊りである。

隣で見てる町の人に「よくみんな二日間持ちますね」と聞くと、
若者4組が往復それぞれ任務分担して行うとの事。「なるほど」と納得。

寺町の笹踊りは、他の町よりも100年ほど歴史が古く
その分この祭りの主役的存在らしい。

その笹踊りの最後をつとめるのが囃子方のやんよう神(八百万神)の
うなごうじである。「サーゲニモサーヤンヨーガミモヤンヨー」
(サーゲニモ=実に)の囃子言葉で一斉に路上に転がる。

そうすると同じ組の行司役が起こしてくれるまで立ち上がってはならない
約束なのである。

8日夜9時近くに再度八幡社前の広場に行くと、もう人垣ができていて、
撮影はできそうもない。
それでもどこかいい場所はないかと人垣の後ろに行くと、
カメラを首にかけている私を見て、
50センチほどの石段の上に立っていた中年の女性が
「ここでとりんしゃい」と席を譲ってくれる。

その声が、田舎で生後母親を亡くした妻を学校に行くのを諦めて
育ててくれたおばさんの優しい声にそっくりであった。

感謝しながら石段に登って見ると、
神社入り口の右手に昼間から据えられていた大山車二台が綺麗に灯りで飾られ、
囃しにあわせて裃をつけた人が仕掛け人形を操っている。

昼間来たときには「この大山車も昔は練り歩いていたが壊れてもう動かせない」と
老人に伺っていたが、まさに祭りのメイン会場で大行列を迎える儀式を行って
蘇っている。

早速、シャッターを切ると、かの女性が「タイミングがちがうわ~」。

「え!??」

暫く見てると、操り人形の足をしっから支えて台上から突きだして
ポーズを取らしたり、台から垂らした布団に真っ逆さまに頭をぶつけて
また台上に戻すというアクロバット操作を始めた。

その飛び出すシャッターチャンスをかの女性が言ったのだ。

『良くできた操り人形だ。太鼓まで囃子にあわせて打っている』と
望遠レンズでズームして見ると、、『ワオ!生きた人間だ!!』

後で伺うとこの祭りは14才ぐらいから27才ぐらいまでの若者が
それぞれ重要な役を行っているとのこと。

この操り人形役の子供はその中で小6か中1ぐらいで小柄の子供を
選んでいるとのこと。

俄然、すぐ下から撮ろうと、かの女性にお礼を言って、大山車の真下に行く。
カメラを構えていると、隣の20台後半の青年が
「俺がシャッターチャンスを教えてあげるよ」
「子供の時に踊ったんだ。お囃子の歌詞で身を乗り出す時がわかる」。

『みんななんて親切なんだ』と感謝しつつ、
青年の「はい、そろそろ」「今!」という合図を聞きながら
操り人形ならぬ子供の飛び出た瞬間を撮る。

そうしているうちに、神社の中に入っていた大名行列の人たちが出てきて、
広場の人垣の前に輪を作る。

いよいろ祭りのクライマックスが始まるらしい。
だがなにぶん始めての祭りで何があるかもわからず、
しかも列の後ろにいるので撮影どころではない…。

この時、頭の上から「ここに登ってきなさい」と中年男性の声。
50歳代の地元の男性が神社の石塀の中の中段に登って塀の上から上体を乗り出して
8mカメラを構えている。

もう神社の中に入る事はできないので、そのまま塀をよじ登ってって撮れという事だ。

『神様の罰が…』と一瞬頭をよぎるが、地元の方の親切な申し出に喜んで乗る。
登るときにしっかりカメラを受け取ってくれ、お陰で塀の上に跨って撮影できた。

また、あやつり人間を真横から撮れる絶好のポジションにもなった。

祭りのクライマックスには、
全ての山車が揃ってそれぞれが同時にお囃子を奏でながら小若は踊り、
うなごうじは、広場のあちこちで転がる。

そして、最後に笹踊りの若者3人が神社から出て広場で踊る。

大山車の前で踊り終わると毅然と立ち上がり、三人がさっさと帰路につきだした。
その後に列を組んでいた侍達、そしてうなごうじ達がさっさと早歩きで去っていった。

いままでの二日かけていたのんびり行列から花火が散るような見事な退散。

人垣の輪を作っていた人々も一気にいなくなった。
かの男性にお礼を言おうと振り返ると塀の近くにももう誰もいない。

おそるおそる塀から降りて急に静かになった境内に入ると、
閉じた社の中で厳かに神事が行われていた。

時計を見たらもう10時を過ぎていた。
官舎への帰路がちょうど天王社への経路を通る事になる。

この途中に寺町の会所がある。
笹踊りの一行は、最後の踊りをしながら会所に向かっていた。

列に追いついたところで自転車を止め、
若者3人の太鼓踊りが、
出迎えた村長(8区長)が頭を垂れて感謝の意を表す前で、
最後の奉納踊りを行い会所に入るのを見届けた。

二日間のうなごうじ祭りはこうして終わった。

そして、自転車を取りに行き、帰路についたところで更にビックリ感動した。
行列には、菟足神社の秦氏から三河武士に続く火薬の文化伝統からか
爆竹が大量に使われる。

往復で4回通るので爆発痕の紙が道路上にかなり散乱していた。
ところが自転車を取りに帰っている間に道路が綺麗に清掃され
爆竹の破片一つ残っていない。

行列の静から動への一瞬のクライマックス、そして行列終了後の瞬時の清掃・・・。

笹踊りのお囃子の中にも「おおくぼのおとのさまに感謝して~」という言葉がある。

祭りの主役は往復4組のそれぞれの役をこなす14才から27才の若者達である。
人数的にもかなりの数になるだろう。

最も人間形成に大事な時に、
祭りを通じて人間が社会生活を営む上で最も大事な心構えの一つである「感謝」を
体得し、500年以上も伝統として受け継いでいる。

穂の国の暖かい人情、他者への思いやりは、
これらの祭りを通じて育まれ風土を形作ってきたのではないだろうか。
まさに、日本の心、大和心を伝える世界に誇れる精神性の高い伝統行事である。

豊川商工会議所の菅沼洋史専務理事によると、
米百俵で有名な長岡藩は、この牛久保の牧野家がルーツであり、
長岡商工会議所100周年記念事業には、
会頭で末裔でもある牧野氏が豊川商工会議所を訪れ
うなごうじ祭りを見学していかれたとのこと。

又、その縁で先の新潟中越地震には、豊川市の有志から長岡市に
多大な寄付が行われたとの事である。

歴史事実は文字で残さないと歴史として残らない。
長岡藩の米百俵の教えも小説となったから時代認識されたのである。

多分、かっての日本社会は、
この牛久保藩、長岡藩のような村、藩であったに違いない。

だから江戸末期から日本に教師としてやって来た西欧人が
江戸社会に感動したのである。

改めて、日本人の「こころ」を見つめ直すことの大切さを
教えてくれた穂の国の祭りであった。

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北海道の四季(写真) http://groups.msn.com/jjt8khvnlvgq2ipf5spd2vq9r4
北海道の四季(写真)パート2http://groups.msn.com/hearthul2006
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