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2006年 5/29 春爛漫、穂の国の春祭りにて・・・その1

穂の国の春は、市街地中心を北から南に流れる佐奈川の桜の開花とともに
一気にやってくる。
今年は、寒い天候が続き桜の開花が遅れたお陰で、
4月8・9日に、菟足神社風まつり、牛久保八幡神社うなごうじ祭りと
満開の佐奈川桜祭りとを一気に撮影する事ができた。

次週の週末は、母の3回忌で四国愛媛の実家に帰省しなければならないので、
二日間で精力的に回って撮った。

週初めから曇天が続く中、前夜の天気予報で翌朝の晴を確認し、
6日朝4時に起床し、例のごとくママチャリで隣の佐奈川沿いの桜をまず撮影に行く。

夜明けの澄んだ空気の中、
北向きに上流の本宮山を借景に川沿いの桜並木を撮るため、
東南から太陽光線が射す早朝を狙った。

本宮山そのものをハッキリ撮るためには真南の正面から太陽光線が
射す正午がベストだが、これは仕事中なので仕方ない…。
でも、市街地にもかかわらず川の中で白鷺を撮ることができた。
珍しい早起きの功徳か。

全ての時が止まったように静寂な早朝の佐奈川の川辺で満開の桜を眺めながら
この桜の今あるいわれに思いを致した…。

佐奈川沿いの桜も豊川運動公園を取り巻く有名な桜トンネルも、
豊川海軍工廠が開設された昭和14年12月15日以降に記念植樹されたものである。

開設当時は僅か1500名であった海軍工廠も、
昭和18年には約6万人の職員を抱える東洋一の工廠となった。

豊川市の人口も工廠設立にあわせて三村合併した昭和15年には3万人だったのが、
昭和18年には7万4千人、昭和19年には9万2千人に膨れあがった。

まさに豊川は海軍工廠によって成長した軍都であった。
現在、駐屯地前を姫街道に平行して走る海「運」通りも元々は海「軍」通りであった。

豊川の桜はこの工廠で勤務した海軍将校が植樹したと伝えられている。

東洋一の規模を誇る海軍工廠は当然ながら米軍の戦略空襲の目標となり、
昭和19年11月23日にB29により航空写真が撮られ、
精密な建物配置図が作成されていた。

昭和20年8月7日、雲一つない快晴、
グアム・テニアン・サイパン・硫黄島の各基地から飛び立った米軍第20航空軍の
B29爆撃機124機とP51戦闘機45機からなる大編隊は、
12波の波状攻撃で豊川海軍工廠を爆撃。

午前10時13分から僅か30分足らずの間に3,256発もの500ポンド爆弾
(814.1トン)が投下された。

海軍工廠では「総員退避」の放送直後に空襲が開始された為、
12~13歳の国民学校児童や女子挺身隊員を含む2,700人近い尊い命が奪われた。

また爆撃は近隣の病院や一般住宅にも及び、
一般住民の死没者も100人を超えていることが確実視されているが、
その正確な実数は把握されていない。

翌日の新聞には、「豊川付近に爆撃、若干の被害が有った模様」とのみ書かれていた。

現在でも、工廠敷地跡地に所在する自衛隊豊川駐屯地の当時から残る倉庫等には
多数の銃撃痕、曲がった鉄筋等があり、空襲の凄まじさを伝えている。

近代500年史は、白人による有色人種世界の植民地化時代でもあり、
植民地獲得競争に遅れて参加した米国にとって当時地球上で進出しうる
最後の空白の地域は中国の満州地域しかなかった。

その満州は日本が五族共和を訴えて満州国を設立していた。
日本を倒して中国に進出する目的で太平洋戦争が行われた。

それ故、占領後使う施設は爆撃目標から外し、
それ以外は日本弱体化、二度と白人に立ち向かえないように徹底して破壊された。

例えば、横須賀帝国海軍基地は周辺を爆撃したのみで丸々残して、
戦後米太平洋艦隊の基地としてそのまま使用して現在に至っている。

朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争等、
この海軍基地の兵站機能なくして遂行不可能であった。

一方、日本弱体化のためには、全国113都市への空襲、
広島・長崎への原爆等、一般国民殺人を禁止したジュネーブ条約違反の
戦争犯罪行為までしている。

豊川市在住の後藤雄三医学博士著の「風の追憶」によれば、
当時の豊橋市空襲は、まず、避難方向の風下にゲル化した油を投下して
火の盾として塞ぎ、その後風上からあぶり出すように皆殺しを図って空襲している。

子供であった著者も一本道のあぜ道で執拗に機銃照射を浴びている。
この方法は、20年3月の10万人が犠牲となった東京大空襲でもとられいる。

当時は白人以外は人間ではなかったのである。
それ故、第一次世界大戦後の国際連盟の理事会で日本が
「民族平等」の決議案を提出し、多数決で採決されたにも関わらず、
米、英、仏等白人国家が「かかる重要な決議案は全員一致でなければならない」
と主張して同案を葬っている。

トルコには「東郷通り」や「乃木通り」が今もあり、
ポーランドには「アドミラルトーゴー」と言う銘柄のビールがある。

これは、ロシアという白人大国に日本という有色人国家が世界史で
始めて勝った日露戦争にちなんでつけれている。

窮余の策でハワイに先制攻撃を行った昭和16年12月8日も、
当時は記念すべき日とアジア・アフリカ等被植民地国民から大絶賛を受けている。

戦後は、日本弱体化の占領政策でこれら事実は一切忘れられている。
「その国を葬るにはその国の歴史を葬ればいい…」と国際社会では言われている。

戦後60年、今一度様々な観点から近代史500年を自分で
見直す時ではないだろうか。

こういう流れの必然として豊川海軍工廠も大空襲を受けたのである。
当時の桜は植樹後まだ数才の子供であった。

植えた親とも言える工廠の海軍将校等は爆死している。
親がいなくとも子は育つと言うが、60年経った今、
日本に誇る桜並木として人々に感動を与えている。

工廠は亡くなっても桜の名所としていつまでも人が集まる。
亡くなった魂達が、自分たち亡き後の豊川市の繁栄を祈って
毎年満開の桜を咲かしてくれている…。

桜祭りのメイン会場の市役所前の桜トンネルでは、
今はなき親たちへの感謝と哀悼のおこころざしであろう、
灯籠が飾られる。

華やかな桜祭りの中で、そっと御霊に手を合わせたい。





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