2006年 3/16 穂の国豊川古代時空を超えた旅(その4)
さて、7世紀初頭の聖徳太子に始まった中央集権の統一国家にする努力は、
8世紀初頭の文武(天皇)朝における大宝律令で一応の完成を見た。
その律令国家建設への努力は、次の6点で要約される。
①17条憲法
②大化の改新
③唐との軍事衝突
④壬申の乱
⑤大宝律令
⑥「古事記」「日本書紀」の編纂
つまり、唐という大国を前に、
半島の新羅と連合して反唐の独立国家を成立させた所に最大の意義がある。
この時の新羅の王・文武王は、連携した天武天皇(高句麗の将)の息子でもあり、
日本に渡来後、天武天皇の跡を継いで文武天皇となり中央集権国家を完成させた。
それ故、親唐に転向した中大兄=天智天皇を壬申の乱で
倒さねばならなかったのである。
日本で壬申の乱が行われていたときに、
半島では天智天皇を援軍しようとする唐の派遣軍に、
新羅の文武王が敢然と阻止戦を行っていた。
そして壬申の乱で反唐の天武朝側が勝利を収めると、唐は半島から軍を引いた。
律令制も新羅の律令制を見習った。
当時から国家の成立・独立は国際関係と連動していたのである。
ちなみに倭から大和朝と言われるようになったが、
この「大和」という文字は、
当時の新羅の女帝の統治時代の「大和時代」から来ている。
その新羅軍には次の五箇条の精神があった。
①君には忠をつくし
②親には孝をつくし
③友に交わるには信あるべし
④戦に臨んでは退くべからず
⑤殺生には時を選ぶことあれ
彼らは、貴族や王族の子で構成され、この五条を遵守し、
山野で軍事教練に励むと同時に、神仙庵で修業し、
ミトラ神という拝火教の神とイメージが重複する西方的な弥勒仏を崇拝した。
8世紀の奈良大仏の開眼供養には唐の僧侶が除外された。
大和王朝の政治的配慮によるものである。
これは単なる宗教イベントではなく、
奈良時代の日本の国家的事業であるとともに、中国からの独立宣言でもあった。
同じ仏教でも中国を経由した仏教と
西アジアから直接新羅を経て来た仏教は大きく違う。
「天孫降臨」「万世一系」「太陽神」という思想は中国仏教にはない。
中国の帝は天から委嘱されて政治を行うが、
帝が天の意図を反映しない場合は、
誰でも天の意を受けて帝を殺して代わる事ができる。
天命を受けるのは外国人でも卑賤の者でもいい。
だから中国は易性革命の国と言われる。
現代の共産国家中国も歴史はわずか60年の若い国家で、
いつまた易姓革命を受けるかわからない。
国分寺・国分尼寺は約200年続いた後、
大宝律令制の終焉とともに荒廃し、消滅した。
しかし、平成になって全域が完全に発掘された国分尼寺跡地に立って、
その古代日本国家・大和朝の成立過程に思いを巡らせたとき、
何故今1200年の時を経て地上に現れたのか、
何か現代日本人へのメッセージを伝えているのではないかと思わざるを得ない。
建国当初の唐は、日本の平安時代あたりまで対外的に攻撃的であり、
周辺諸国はいかに対応するかで国家の命運が分かれた。
この点、反唐で新羅と連合を組んだ建国の指導者は
先見性のある素晴らしい国際人でもあった。
後の明治維新のリーダー達は、これを良き先例として見習ったと言える。
大国の周辺に存在する小国の生き方として、
現代なら唯一の軍事超大国家で
我益のためになりふり構わず武力行使する米国にいかに接し、
応ずるかという問題の参考になるかもしれない。
当時の大和朝は、
現代の国際関係でも重要な示唆を与えてくれていることがわかったと思う。
その後、すぐ西隣の国分寺に行く。
ここに立つ現在の国分寺は、本来の国分寺跡地に1505年、
西明寺2代の機外和尚によって再建されたものである。
但し、銅鐘は旧僧寺当時から唯一残っているもので国の重要文化財である。
更にそのすぐ西隣の八幡宮に行く。
7世紀半ば、白鳳年間に大分県宇佐八幡宮から勧請されたと言われ、
奈良時代になって国分寺・国分尼寺が造営されると、
その鎮護の神として人々の崇拝を受けた。
現代の本殿は、室町時代の神社建設の特徴をよく表現しており、
こんもり茂った森の間からこぼれる太陽光線で何とも言えない
光陰のコントラスのいい被写体となる。
丁寧に掃き掃除をされていた方がいろいろお話して下さる。
高校の教師を退職後ボランティア活動で行っているとのこと。
豊川はどこもで、地元の方が丁寧に説明して下さる。
穂の国の伝統であろう。
この八幡宮の神主さんは、40数代続いた系譜図をお持ちという。
白鳳時代の建設以来のまさに万世一系の神主さんと言える。
氏子さんにも同じような方がいらっしゃるとのこと。
国営として華やかに建てられた国分寺・国分尼寺は、
国立故に地元住民の檀家がおらず、政権の衰えとともに滅びた。
ところが八幡宮は、地元住民の氏子が支えて1400年の時を経ても厳然と存在する。
ここに歴史の真実を見る気がする。
つまり、地元住民の基盤の上に立たないものは滅び、
地元住民の基盤の上に立つものは栄える。
国家(政権)と国民の関係も同じであろう。
更に八幡宮から姫街道に出て、500mほど西に進んだところで
左手に竹藪混じりのこんもりとした森が見えてくる。
三河総社の裏手の森である。
この中に三河国衙跡がある。
三河国衙は、三河の国(現西三河)と穂の国(現東三河)が合併し、
その国司を置くために儲けられた。
なぜ、現三河総社の境内に国衙の跡があるのか?
実は、国司は三河に多数偏在する神社全てに
年間を通じて参拝しなければならなかった。
全ての神社を参拝するのは大変なので効率化のため国内の神社を全て一つに纏め、
国衙の地域内に建立したのがこの三河総社なのである。
歴史の流れの中で国衙は国分尼寺跡と同じ運命を辿るが、
便宜上建てられた総社は現代まで氏子に守られ価値ある歴史的遺産となった。
三国総社の境内に行くと、神社の前に簡単なネットが張られ、
小学生がネット目指してサッカーボールを蹴って練習し、
その横で妹が遊んでいた。
野球なら「壁投げ」だなと思わず微笑んだ。
暫く眺めるうちに何度も何度も蹴っては拾ってきて練習を繰り返す姿が、
幼い頃に愛媛の田舎の大根池で壁投げをした自分の姿、
そして埼玉のマンションで壁投げする三男とその横で遊ぶ長女の姿に重なって見えた。
そして境内をこのように子供に活用させる穂の国の人々の
心の温かさが伝わってきた。
三河総社をでて更に姫街道を西に400mほど進み、
交差点の右手の舟山古墳に行く。
舟山古墳は東三河最大の前方後円墳であり、全長94mもある。
5世紀中頃の築造とされており、武器庫から多数の鉄製の鏃をはじめ、
長刀も発見されている。
鉄の文化をもたらした伽耶あるいは新羅の有力な入植者で、
この地方の豪族となった実力者に違いなく、
位置関係からも大和王朝とゆかりのものかもしれない。
当時は、お米が今のお金と同じ価値があった。
税もお米で払われ給料もお米である。
国力もお米の生産量で決まる。
豊川の豊饒の地、穂の国は大和政権にとって重要な策源地であった。
それ故、国衙が完成する前から国司が派遣されていたという。
古墳の上にも自由に登れるのであがってみた。
うっそうとした林の中に石の祠が置かれており、何かを語りかけるようであった。
日がかなり傾き、今日最後の撮影に、舟山古墳から北に約500m、
西明寺までの緩い坂道をママチャリを漕ぐ足に気合いを入れて進む。
西明寺は、約1000年前の平安時代に、
三河守大江定基が愛妻の力寿姫を失い、この世の無常を感じて仏門に入り、
大宝山の山麓に六光寺という草庵を結んだことにはじまる。
その後、廃れていたところを鎌倉幕府の第5代執権最明寺入道時頼公が
出家して立ち寄った時の縁で再興され最明寺となる。
その後家康と今川氏真の合戦時に
お粥などの炊き出しでお寺をあげて家康を応援した縁で
家康から寺領20石の朱印状を賜るとともに
「西」の字を与えられ「西明寺」となる。
ところで力寿姫を亡くし、悲嘆に暮れた定基は仏門に入り、
宋の国にわたり彼の地で亡くなっている。
定基公は、任地であるこの三河の地を離れるときに、
亡き力寿の供養のために愛染明王の尊像を残した。
「煩悩即菩提」と説く明王の教えは
愛に苦悩する人々を救う強い力になることであろう。
また境内には日本近代医学の父と言われるベルツ博士の墓碑もある。
博士の夫人のハナの祖父が御油町に住み、菩提寺が西明寺であったことから、
博士死後ドイツから帰国したハナが夫と若くして亡くなった娘を弔った供養塔である。
更に本堂裏の大庭園を拝観する。
これは近世の名園と知られる静岡県の竜譚寺を参考に作られたと言われている。
大賽山の霊峰を借景とした回遊式の素晴らしい日本庭園である。
薄暗くなる中で最後のシャッターを押したが、
ドウダンツツジなどが満開の時はさぞ見事だろうと再訪を期してお寺を去る。
暗くなった姫街道をママチャリを漕ぎながら官舎に向かい、
西明寺の定基公のせいか「もし妻が事故等で亡くなったら・・・」と感傷的に思う。
愛妻を亡くした定基の気持ちがよくわかる。
「その時は、一緒に死んでも人生悔いなし」と思う。
その夜電話で妻に「死んでもついて行くよ」と冗談交じり言ったら
4人の子育て真っ最中の妻は
「死んだ後ぐらい一人でのんびりさせて」・・・^^。






