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2006年 3/15 穂の国豊川古代時空を超えた旅(その2)

人は、自分の現代の体験認識で過去も判断しがちである。
古代を考える時も、現代の島嶼の海岸線、地形、気候、風土等で判断する。
しかし、実体が違えば様相も違ってくる。

まず、当時の実際の状況を前提として明らかにしたい。

①現代は一万年続いた間氷期の末期

長いスパンで見れば、現在は100万年以上続いている氷河期の中にあり、
10万年の氷河期と1万年の温暖な間氷期を交互に繰り返している。

氷河期にはアメリカ大陸の平地部などでは9000mの厚い氷に覆われる。
欧州の大地は表層部の肥沃土層が氷河で削り取られていて
太陽光線にも恵まれないことから豊かな野菜などが育たない。

だから、産業革命で得た武力で豊かな資源を収奪するために
南の地域を植民地化していったのである。
現代史はこの西欧文明の力による征服の歴史でもある。

氷河期時代には氷で大陸が厚く覆われる分、海面は大きく下がる。
日本列島は朝鮮半島と北方諸島で完全に大陸と繋がる。
また湖となった日本海の中央部も大きな島伝いに良好な通路となる。
これは今では大和堆、武蔵堆として日本海の中央に痕跡をとどめている。

約一万年前、それまで10万年続いた氷河期が
地球温暖化で一気に間氷期に突入した。
その原因は宇宙的な定期的な物理現象だが、ここでは長くなるので略す。

大陸を覆っていた分厚い氷が一気に溶けるときどうなるか?

実は、現在の新彊ウィグル地区のタリム盆地には、
当時高度に発達した文明が都市国家として栄えていた。
この地こそシュメール文明発祥の地であり、天孫降臨、
万世一系、太陽信仰のルーツである。

このタリム盆地に周囲の山岳地帯から溶けた氷の大洪水が一気に押し寄せた。
命からがら残った子孫がメソポタニア等世界各地に逃れ、
これがノアの箱船の神話の原型として世界に伝えられた。

その後温暖化は更に進み、地中海も日本海も湖から大海になり、
列島が島国となった。
反面、温暖化の最も進んだ縄文時代には海は凪いで
カヌーのような丸太船でも安全に大洋を航海できた。

特に、日本海は、まだ大和堆が島であり、
シュメールに繋がる騎馬民族等が村、都市単位で自由に日本列島
特に越(新潟)地方に直接日本海からやってきた。

当時の三河地方の海岸線もかなり内陸部であり、
熱田神宮はその時の海岸線に建立されたのである。


②日本人は単一民族ではない

現代の「民族(国民)国家」という意識が確立して来たのは、
西欧でも19世紀の中頃である。
それまでは王家とその領土で区分されていた。
日本も明治維新までは藩主とその領国である。
その領国も藩主の交代に伴い変えられた。

ましてや、律令制としてほぼ統一された日本(但し、大和朝廷の統治する範囲内)
という概念が生まれる前には、「国家」という意識は一切ない。
血縁関係の部族集団、集落がそれぞれの国家であった。

古代の列島には、南洋の海伝いに太古より住み着いた南洋民族の集落と、
氷河期時代の陸伝いに大陸からやってきた集落が融合しながら
原日本人の縄文人を形成していた。

約5000年~6000年前の間氷期のピークが過ぎた頃から
地球は徐々に氷期に向けて寒冷化し始め、
世界各地で多くの民族の南下が始まる。

アーリア人がインドに侵入し、
満州、シベリアからも諸民族が波状的に朝鮮半島に侵入し、
「ドミノ効果」による玉突き現象で、
集中稲作を行っていたワイ族、狛族等弥生人の原民族が列島に移動してきた。

農耕民族は飢饉か戦争でもない限り移動しない。
しかし地球規模の寒冷化と部族間の対立などで
様々な民族が先住民と同化しながら日本に移動して来た。

更に紀元前5世紀中国の春秋時代の戦乱の余波によって、
列島に渡来する人々が爆発的に増大し、
列島に弥生式土器と集中稲作を広く定着させた。

縄文後期の列島の総人口は16万だったが、
縄文晩期は寒冷化と食糧不足により、その半分の8万まで人口が減少。

そして紀元前3世紀に、
北九州を中心に弥生人が稲作による大量食糧生産を始めてから
1000年経った7世紀には540万と爆発的に増えている。

実は、1000年でこれだけ増えるには列島内の人口増加だけでなく、
朝鮮半島から波状的に大量に渡来人がやって来たからなのである。
半島を経由した「北アジア人」の渡来は、
弥生時代から7世紀までに実に100万~150万人にも達する。

縄文対渡来の人口比は、近畿は1:9、中国地方は2:8と
数の上で先住民を圧倒している。

明治維新以前の北海道には約3万人のアイヌ人と、
松前海岸などでニシン漁を行っていた和人(日本人)約2万人が
それぞれの文化で棲み分けられ共生していた。

ところが維新以降の開拓100年で和人が一気に500万人に増えると、
画一された行政組織・教育等の結果、
アイヌ人は和人に同化・吸収されてしまった。

太古の先住日本人も同じように渡来人に吸収・同化されていったに違いない。
アイヌ人だけが最後に残る先住日本人である。

その渡来人の動向を大きく纏めると次のようになる。

【第一の波】
紀元前3世紀~紀元後2世紀にかけて、
農耕・製鉄技術とともに半島南部から伽耶・新羅地域の小国家グループが渡来。

彼らは、高句麗・新羅・百済成立の混乱により
列島に亡命・逃避した半島の知識階級・上層階級である。

列島は、気候的に稲作に向き、川からは良質の砂鉄がとれる。
大量の木炭を消費する製鉄にも、
降雨量が多く木材の豊富な列島が格好の場であった。

ちなみに1トンの鉄を作るには14トンの石炭で
1400度の高熱にする必要があり、
14トンの石炭を作るには60トンの木材が必要であった。

更に伽耶・新羅は、建国の勢いで列島に進出して、植民を進める。
「古事記」「日本書紀」「風土記」に、
伽耶系・新羅系の、特に稲と鉄に関わる神々の名が見られるのはこのためである。
伽耶人は、その後も列島への移住を続けた。


【第二の波】
4世紀末~5世紀半ば頃、百済人によって漢字の音読み、訓読みがもたらされる。
これは、高句麗の公開土王が百済に大きな打撃を与えたため、
百済の王族・高官・学者・将軍達が知識階級・技術者を連れて、
大挙して大和地方を中心とした列島に逃避・亡命したからである。
彼らは後世に「古来(フルキ)」と呼ばれた。

475年、百済が高句麗の圧力で都を南の公州に遷都させられたときも
百済系人は列島に渡来。

その後、7世紀に百済と高句麗が滅亡するまで戦乱が絶えなかった
三国時代の半島から多くの避難・亡命者が続いている。

6世紀半ばには、伽耶連合が新羅に併合・吸収されると
多くの伽耶人が列島を目指した。
伽耶連合は優れた製鉄技術と文化を持っていたが、
都市国家の連合体であったため、強国の攻撃には弱かった。
戦乱の度に集落単位、都市単位で多くの伽耶人が渡来した。

吉備は長いこと大和と北九州の間にあって、独立を保っていた。
特に豪族が割拠していた大和に比して、吉備は製鉄技術を持つ先進地域であり、
巨大な古墳が物語るように強力な権力構造があった。
半島の伽耶本国は6世紀に消滅したが、
吉備では伽耶人達が長らく伽耶の分国として伝統を維持した。
岡山に残る「賀陽」は、古くは「加陽」「加夜」と表記し、
伽耶、加羅の事である。

一方、騎馬民族の勃興とともに高句麗人が、前述の日本海の島伝いに渡来、
長野県を中心に開拓、西国とは根本的に異なる基礎文化を形成し、
5世紀には高句麗の分国と言えた。

高句麗語は、特に列島の中部以東で、後の日本語を形成する根幹となる。
駒ヶ岳の「駒」は、高麗つまり高句麗の事である。

因みに、平安初期の信濃では、高句麗王族・貴族が改姓を願い出て、
日本風に鈴木・豊岡・村上・篠井・玉川・清岡・御井などと名乗るようになった。

つまり、中央構造帯である豊川が自然障壁となって、
ここから東が高句麗文化の強い東国、西がやがて大和王朝の勢力範囲となるのである。

それ故、穂の国が豊川の右岸台地で栄え、豊川を越えなかった歴史的理由がわかる。
豊川から先はまだまだ外国であった。





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