2006年 3/14 穂の国豊川古代時空を超えた旅(その1)
2月18・19日、土日をかけて、いよいよ穂の国豊川の散策にママチャリで行く。
今回の単身赴任は、大蔵大臣(実質元首!?)の厳しい査定で足(車)がない。
買い物用に支給されたママチャリで近くを回ろうとしたが、
豊川名物の凍えそうな強い北風に負けて殆ど一冬炬燵で丸くなっていた。
しかし、お陰で昨年12月の着任時に豊川信用金庫からいただいた
同行60周年記念誌の「穂の国を探ねて」をじっくり読むことができた。
古より穂の国と言われ、古代の日本建国のロマンの上に、
三河武士に代表される戦国武将の人間ロマンが折り重なり、
更に日本産業の原動力として現代につながる豊川を知る上で至宝の名著と言える。
この本が豊川散策の良き案内書となった。
豊川市は豊川の右岸台地に広がる米所として古より発展してきた。
地図で観れば西向きの背びれが三角に大きく飛び出た金魚の形をしている。
もっとも年始めに東部の一宮町が合併したので
豊川上流沿いに更に五割ほど面積も増えて俵のようになったが、
今回は旧豊川市を豊川市と認識して回った。
旧東海道を名古屋方面から進んで来ると、
有名な御油の松並木を二キロほど過ぎた所の追分けから、
海岸に向かう東海道に別れて、
豊川の当古の渡しまでほぼ東にまっすぐ平野部を走る裏街道に出会う。
通称姫街道と言われているが、豊川をこえて本坂峠で駿河の国に入り、
浜松で再び東海道に合流するまでの約50kmの内陸の街道である。
このうち、追分けから当古の渡しまでほぼ12kmであるが、
いわばこれが豊川市の金魚の背骨である。
豊川市は、この姫街道を中心に4つの臍を持つと言われる。
諏訪地区、旧豊川町地区、牛久保地区、国府の町の4つである。
諏訪地区は、かって5万数千人の職員を擁した東洋一の海軍工廠があった地区
であり、豊川市の中心部である。
大東亜戦争末期、米軍の空襲で壊滅的な打撃を受けたが、
戦後工業団地として見事に再生、
市庁舎などを含んだ繁華街としての賑わいも見せている。
春になると市役所周辺の通りや佐奈川沿いに
当時の海軍将校が植樹した見事な桜並木が満開となり、
今から撮影を楽しみにしている。
市役所から姫街道を東に約2km佐奈川を越えながら進むと
旧豊川町地区を代表する豊川稲荷が見える。
今年のNHKの行く年来る年の最初に紹介され、
狐で有名だが実は豊川閣妙厳寺という曹洞宗の古刹でもある。
牛久保地区は、姫街道から約2kmほど南に位置しており諏訪地区、
旧豊川町地区と逆三角形を形作る位置関係である。
古くから牧野氏等の城下町として栄え、
今も残る多くの寺院が昔日の繁栄のあとを見せてくれる。
そして国府の町が、今回の散策のメインであり、
名の通りかって穂の国の国衙、現代風に言えば県庁が置かれていた場所である。
今でも名鉄の国府駅があり、金魚の頭部にあたる。
豊川平野から北を見れば、東名高速道路が、
姫街道の北約2~3キロ辺りを街道に並行に
本宮山等の山脚沿いに走っているのが見える。
これは地形的に豊川平野がこの辺りから額田山系に変わるところである。
国衙、国分寺等いわいる当時の役所は、
北部の山脚が平野にべろのように突き出た穂の国を見渡せる小さな丘の上に
立てられていたことが解る。
現代の村の鎮守様と似たような位置関係かも知れない。
2月18日朝、諏訪地区のほぼ中央にある官舎を出て、
まず佐奈川沿いに上流を目指す。
佐奈川は金魚の一番くびれた所約4kmを北東から南西に流れる
桜並木が有名な小川である。
ちなみに佐奈川は豊川市を抜けたあと、約4kmで三河港にそそぐ。
今回の最初の目的地は「オール豊川ボーイズ」のグランド。
実は、豊川市に転勤が決まったときに一つの縁のようなものを感じていた。
話は、2年前に遡るが、二男の聖人が中3の夏、
オール草加ボーイズで全国出場を果たし、2回戦で三重の強敵を下し、
三回戦で当たった相手チームがオール豊川ボーイズなのである。
1、2回で1点づつを取って、2-1のリードで迎えた3回表、
下位打線がヒットと四球でつなぎ、二死満塁でトップの聖人に打順が回ってきた。
そしてこれまで勝ち進んで来たように見事に打ち返した打球は
ショートの頭上をライナーで抜き、
誰もが左中間を抜いて3点の追加点と思った瞬間、
オール豊川のレフトが左前方に猛然とダッシュし最後はダイビング!!
なんと頭から滑りながら地上すれすれでライナーをキャッチしたのだ。
更に5回裏同じように二死満塁で聖人に再度回ってきた。
今度はレフト線に予選の時の逆転ホームランを思わすような大きなフライ。
しかしまたしてもレフトが背走しながらナイスキャッチ!。
試合は、これで流れが相手に行き、
6回裏にまさかの2点失点で2-3に逆転される。
最終回の7回表に二死三塁で9番バッターが投手ゴロでゲームセット・・。
埼玉の地元の新聞に「オール草加ボーイズまさかの敗退!」と大きく載った。
確かに初回から楽勝と感じていた。
多分、あのレフトのプレーがなければ、コールド勝ちした試合だったと思う。
その後何回か父兄等で会合を持つたびに出る会話が「あの時の一打・・」である。
聖人は「もうあの話は止めて!」^^。
だから豊川に来たときから一度オール豊川ボーイズを見てみたかったのである。
ホームページで調べれば、官舎から佐奈川沿いに上って僅か2kmほどの
企業のグランドを借りて練習しているらしい。
今回初めて行ったが、残念ながら他のグランドか試合に行っているのか
会えなかった。
いくつかのグランドを逐次借りるのか専用のハウスもなかった。
いわばジプシー練習で全国大会に出場しているのか・・。
改めて凄いと思った。
そして更に佐奈川を上り、赤塚山を目指しながら、
「あのレフトの子はどの高校に進んだのだろう?」と我が子のように思いめぐらした。
実は、全国大会には早稲田実業高校の部長さんと監督さんが
二男と投手の槙谷君を見にわざわざ東京から大阪の会場に見えられていた。
周りの誰もが卒業後二人とも早実に行けるものと思っていたが
見事推薦試験で落ちて二人とも地元の武南高校に入った。
全国大会のすぐ後に岐阜の選抜全国大会に出た。
雷雨で試合が夜9時まで伸びると翌日3試合を打診するというような
厳しい日程の中で見事ベスト4まで勝ち進んだ。
3回戦目には、夏の大会で優勝したチームに勝ったチームにも快勝した。
親も毎夜のユニホームの洗濯等で大変だったが、
連戦を続ける子供達の疲労も目に見えてきて、
準決勝で敗れたときには皆「これでよかった!埼玉に帰れる」と心から感じた。
翌日試合していれば成長途上の子供達の身体に大きなダメージを与えたかも知れない。
実際、二男は高校入学後すぐに試合に使って頂きヒットもよく打っていたが
右足大腿部の筋肉断裂で3ヶ月休む事になった。
投手の槇谷君も腰を痛め、1年休部することになった…。
それだけ夏に身体を酷使していたのかも知れない。
あのレフトの子は元気に高校で活躍しているだろうか?
今度、是非それだけをお伺いに行きたい…。
そういう熱い夏を思い出しながら
水族館のある魚魚ランドで有名な赤塚山公園に到着。
東名高速道路の赤塚PAに接している。
赤塚山の山頂展望台で改めて穂の国の全貌を眺めワンショット。
生憎曇り空で遠景は望めないが、次回を楽しみにしよう。
赤塚山で穂の国の全貌を眺めた後、台端沿いに西に国分尼寺跡を目指す。
途中でこんもりとした森があり寄ってみると「伊知田神社」があった。
部落の鎮守様だと思われるが飛鳥時代からの古い神社かも知れない。
風格を感じて数枚撮る。
そして今回の散策のメインの国分尼寺跡に到着。
国分尼寺と国分寺は奈良時代の天平13年(741年)に
仏教を厚く信仰していた聖武天皇が、
国家の平和と繁栄を祈るために全国60余箇所に建立する詔を出し、
三河国分寺と国分尼寺は8世紀後半に完成、日本国家の確立に大きく寄与した。
しかし、律令制が崩れてゆくとともにその維持・管理が困難となり
200年後の平安時代末には荒廃していった。
豊川市では、歴史的文化遺産の三河国分尼寺跡を、
跡地に建っていたお寺を西に移動させて完全に発掘調査し、
一部の回廊を忠実に再現するとともに、資料館を備える等、
見事に現代に蘇らせている。
またボランティアを養成していつでも懇切丁寧に説明して頂ける。
日本人と日本国のルーツを辿る意味でも是非足を運んで欲しい所である。
そのボランティアも20名募集のところ34名が応募し、
全員教育して採用したらしい。
ちなみに国分寺は、男子僧20人、国分尼寺は女子僧10人が定員であり、
難しい国家試験に合格した国僧であり、
高い身分が保障されたものの生涯仏教徒としての厳しい修養が求められていたらしい。
その再現された中門を潜り尼僧10名とこれに使えるもの20名の
修行と生活の場に入って太古の生活を念じたとき、
何故か、かってそこに自分が住んでいたようなデジャブ感を味わう。
そして、時空を超えて、当時の国造りに思いをはせた・・・。
学校教育からの認識では、日本の歴史は、
当初石器時代のような原始的な縄文人が住んでいた列島に、
稲作文化の進んだ弥生人が大陸から侵入して縄文人を圧倒して日本人のもととなり、
更に中国に律令制や仏教を学び日本国の礎が出来た・・となる。
特に、島国であり、古代から日本人という単一の民族国家として成立、
現代に繋がっていると習ってきた。
だが果たしてこれは本当だろうか?
国分尼寺跡地で脳裏に浮かんだ情況は・・・。






