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2002年 7/12 道東…雨中1200km爆走一期一会の旅(その二)

次に「精霊流し」の歌が流れる・・・

『去年のあなたの想い出がテープレコーダーからこぼれます
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
二人でこさえたおそろいの浴衣も今夜は一人で着ます
線香花火が見えますか空の上から』


私はこの歌を聴くといつも郷里の野球の先輩とその彼女を思い出して涙が出てくる。

愛媛の最南端の田舎高校でドラフトにも選ばれプロ野球に行く予定だったその先輩は、高校最後の冬休み、友だちのための買い物で宇和島に行く途中の乗用車の助手席に乗っていて崖から落ちて先輩だけ急死した。

私の田舎の実家には、その先輩を偲んで作られた「あなたはきっと思うでしょう」というレコードがある。

『あなたはきっと思うでしょう・・・
・・・・・・・
父ちゃん、母ちゃん会いたいと・・・』


先輩を偲んで、先生や同僚が涙で歌っている・・・・。
裏面のとある女性徒のソロを聴くと涙が出て止まらなくなる・・・。


四国愛媛は正岡子規等が日本で初めて野球を行った日本野球発祥の地。
私も小さい時からの遊びは神社の境内等での草野球。TV漫画「巨人の星」とともに育った世代だ。
草野球の先輩でプロに行った人を間近に見ている。

中2の頃には名門高校の監督がわざわざ指導に巡回で来てくれた。勿論、プロに憧れた。
でも、勘違いしてはダメだ。子供は子供なりに、その時の「今」を全力で生きているのだ。
中学生なら中学野球がその時の人生の全てだ。

果たして周囲の大人、特に先生達指導者がどれだけそれを理解しているかが、その後の子供達の人生を変えることになる。

当時の我々の監督は、陸上専門で野球は余り知らない。だが野球技術は必要ない。
本当に野球が好きな子は、プロにまで行くような先輩を見ては自分で人より多く練習して上手くなる。

入学当初、「野球部は練習も遅く、悪さもする不良も多い・・・」という風評で、はじめ父も野球部に入るのをよしとしなかった。確かに親戚の先輩等も入っていたが、成績はクラスでかなり下の人ばかりだった^^;

そこで、学校から帰って、2kmのコースを毎日走って目覚まし時計^^;で計測、グラフに記録するとともに、その後、池の「壁投げ」100球を続けた。

3ヶ月後、父が「日曜日の練習に行く前、1時間父と一緒に農作業をする」という約束で入部を認めた。

生まれて気がついた時には、父母と一緒に山の植木の下草刈り、稲作等の農作業を行っていた。


小5には、耕耘機を一人で運転していた。この生まれた時からの農作業が運動能力を高めてくれたのだろう。中3でサード・4番となった。

また、「類は友を呼ぶ」。生徒会長やクラスの学級委員長等が野球部に集まった。

ちなみに私も生徒会副会長^^;。
投手は、1年後輩で、後、地元高校からドラフト1位でフォークスに入り、新人王を取った藤田君。
当然ながら練習試合も連戦連勝で、久し振りの県大会出場を目指した。

その前の郡予選の二日前、「事件」は起こった。
当時、3年生は、「技術」は男子、「家庭保健」は女子と別れて授業が行われ、女子の家庭保健の先生が野球部の監督であった。

その監督が全3年生の女子の前で「所詮、中学校の野球は高校野球のためにある」と放言したのだ。
授業の後、女子からその発言を聞いた3年生部員はショックだった!

放課後の練習前、グランドの端の鉄棒のもとに集まり「今から退部届け出しにいこうか…」
とまで話し合った…。

しかも試合当日になっての大きな守備変更。本来投手のS君が控えの時はライトのはずなのにファーストに、そしてファーストのA君が急遽ライトに。投手は藤田君・・・。

実は、S君は球は重いがコントロールが定まらない。野球の名門松山商業の一色監督が6時間も道のりをかけてコーチに来た時、藤田君と私とS君の3人が投球練習を披露した。

その時点で、S君の投げ方ではコントロールがつかないことが指摘されていた。
でもS君は3年で生徒会長でもある。最後の最後まで投手をやらせていて、当日になって投げさせないことに悪いと思ったのか、急遽ファースト据えたのだ。

ところが試合前のノックの時からサードの私が思い切り送球すると受けた手を痛がってはじく…。慣れてないので捕り方もぎこちない。

そしてライトに行ったA君は、ずっとファーストをやっていたので捕球は上手いが、足が極端に遅い・・・。


試合になって、3回の守備。サードゴロを捕って送球するもS君の足がベースから離れていてセーフ。次に強烈なショートバンドの球を私が弾いた。記録はヒットだが、気が既に沈んでいた。

更に次打者の打った球がフラフラとライトの前に。S君なら平凡なライトフライだが、A君では無理・・・・。結局、アッと言う間に2点を取られた。

6回の反撃。ツーアウトでフォアボールのランナーを1塁に置いて私がセンターオーバーの3塁打を打った。普通ならランニングホームランだろう。でも心の沈んだ足は遅く、自分の判断で三塁に止まった。それでも同点のチャンスだが、次打者のS君は元気なく凡退。

次の最終回で打席の回った藤田君が綺麗にライト線にクリーンヒットするも後続がなく、
試合終了。後で藤田君が「僕が池田さんの前か後だったなら・・・」

まさかの、いや二日前からの我々にとっては、当然の1回戦敗退。実は、翌日の学校給食は全校生弁当と予め変更され、全員が応援に来る予定であった…。

翌日、3年の野球部員は、クラスから抜け出し、裏山で誰もいないグランドと学校の屋根をぼんやりと眺めながら弁当を食べた…。

敗戦の原因は一つ。あの「事件(発言)」が皆の心を傷つけ、心の和を壊した。

野球などできる状態ではなかった。中学生は中学生の「今」が人生の全て、野球に命をかけているのだ。それが何故教師にわからなかったのか・・・。

今もこの監督はこれらの事を知らないに違いない。卒業が近づく頃、この監督に職員室に呼ばれた。傍らにかって指導してくれた高校の監督がいた。進路は既に受験して決まっていた。

「やはり、少年自衛隊に行くのか?」「ハイ!!」・・・・・。
「じゃ、その試験に落ちたら高校で野球するのか?」「・・・・はい・・」


試合後、応援に来てくれていた兄が「高校野球で頑張れ!」と励ましてくれた。
でも、もう私の、いや私達の心は決まっていた。
《もう野球は止める。中学野球が高校野球の予備校でないことを証明する》
《こんな哀しい想い出の郷里はもう出る!!》


結局、3年生で高校でも十分以上に通用する部員は、卒業後皆見事バラバラに田舎を去った。

1年下の藤田君だけが地元に残って、数年後ドラフトで1位指名されプロに入ったが、高校では甲子園まで進めなかった。それなりの選手が揃っていなかった。

その数年後、地元の有志が「中学の優秀な部員を地元の高校に残して甲子園に」という運動を行った結果、南宇和高校が初めて甲子園に出場できた。

我々にはわかっていた。皆が郡に一つしかない高校に入れば、甲子園でもかなり上位に行けることを。生まれてから遊びは野球しか知らない・・・・。

私は・・・キッパリと野球をやめれなかった。好きなのだ野球が。結局、定時制・通信制の全国神宮大会で2年連続優勝し、大学に入ってやっと断念、以後空手道を続けている…。

人生に「もし」はないが、もしあの時あの「事件」さえなかったら、中学から皆郷里を出ることなく、郡内唯一の高校で野球を一緒にして成果を上げ、それぞれ今とは違う人生展開になったかも知れない。

だから、今、自分の子供達が少年野球であっても、子供にとってそれ自体が今人生なのだと言うことを理解して接しているつもりだ。指導もそういう思いでする。

精霊流しの歌が続く・・

『人ごみの中を縫うように静かに時間が通り過ぎます
あなたと私の人生をかばうみたいに』

もし、私が普通の中学生のようにこの地元高校で野球をやっていたら、この歌で思い出す
先輩と一緒に野球をやっていたに違いない。

いずれにせよ・・・・彼女は幸せな人生を送っていて欲しい・・・。
もうお孫さんがいてもおかしくない年代か・・・。


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