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2001年 8/24 2001年夏の思い出(その一)

8月16日、第38回鳩ヶ谷市少年野球大会閉会式での体育協会長の講評…

「講評ではこれまで個人の事を言うことはありませんでした…
 しかし、優勝した里緑が丘パワーズの投手池田君…
 君は春に比べて格段の成長した姿を見せてくれました
 …こうなるには池田君自身が並々ならぬ努力をしたに違いありません。
 本当に素晴らしい野球を見せてくれました。
 今後池田君がその野球人生で大いに活躍してくれる期待します…」


小学2年で少年野球クラブに入って約4年間の総決算の大会で見事その成果が認められた瞬間であった。そこには、甲子園球児と同じく、白球1球に賭ける子供達のドラマがあった。

聖人が入部した平成9年の第34回大会では、里緑が丘パワーズは、レギューラー全員が6年生で、チーム結成以来28年間指導する市で最も厳しいベテラン監督に鍛えられ、見事チーム3回目の優勝を遂げた。

しかし、翌年、6年生が抜けた後、チームには僅か8名しか残っていなかった…。
監督は60才を過ぎているが、市選抜チームの監督をずっと勤めるだけに指導は上手いが目指すところも高くかなり厳しい。試合中も容赦なく昔さながら叱る。

勿論子供が好きで上手になって欲しいためだが、少子化で一人っ子で甘えて育った子供達には敬遠され勝ちだ。

チームに入っても「監督が怖い」と退部する子供もいる。
親でさえ、試合中にいくら息子が失敗しても大声で叱られると「ムッ!」と来ることもある。

そんなわけで、部員が少なくなってきたのだ。
しかし、それでもパワーズで野球をやろうと入って来る子供もいる。

聖人が3年になる頃には、同級生が5人!となった。それも不思議とクラスで駆け足の1、2を争うような運動能力の高い子が揃った。

でも、新6年生はキャプテンを含む2名が女の子という風に、選手が揃わない。
3年の聖人が4年と偽ってセカンドに出る状態だ。

そこで、聖人達3年生に期待する「3年間計画?」がスタートしたのだ。
ほぼ年間を通じで、週末の正規の練習の他、月・水・金の朝練又は夕練が行われた。

監督は毎日付き合い、誰が練習に来たかチェックした。○の多い子から試合に出すのだ。

聖人は、夜9時には寝て、早朝一人で起き、マンションの空き地で壁投げを続けた。夕食後にも壁投げをすることもあった。

そして3年後の今年。5人は4人に減っていた。どうしても一人、厳しい監督に付いていけなかったのだ。「僕は中学校から野球する…」。
しかし、サードのできる上手い5年生が一人だけいて、実質5人で試合をする態勢ができた。

基本的には、外野にボールが飛んだら諦める…!^^;

しかし、今年の春の大会のように準決勝・決勝を1日でされたら、一人投手の聖人が限界となる。他の6年も投げれはするが、強いチームは抑えられない。

お陰で肩への過重負担からフォームも崩れ、宿敵桜ベアーズに決勝で0-7のコールド負けを喫してしまった。

実はその前の大会で接戦で勝ったチームだが、相手がリベンジに燃えていたこと、更に聖人と同じく市の選抜チームの投手を二人擁していたことなど戦力量で負けたのだ。

このため、逆リベンジでいよいよ最後の夏の第38大会を目指し、練習にも益々熱が入った。

先ず、監督が親を呼んで話した。
「今度の夏の大会は盆休みです。
 今年是非優勝するため、どこにも行かず野球に来させて欲しい。」

愛媛の農家の跡取りになっている私は、学生時代から盆・正月は必ず家族で実家に帰っていた。
何処の家庭も同じような状況であろう。だが、帰省は諦めた。
少年野球には親の理解が不可欠だ。

夏休みに入ると、毎日一番暑い午後1時から4時の間に猛練習をした。
36、7度の猛暑でも練習は続いた。盆時期の大会時の猛暑を克服するためだ。
試合まで26日間連続して練習が行われた。

確かに大会の時、暑くなっても我がチームは益々元気になったが、
暑さにバテた子供のいるチームも多かった。
真っ黒に日焼けした13名の姿が逞しかった。

聖人も夜のシャドウピッチングと風呂の中でスナップの練習を毎日300回する等で調子も戻ってきた。何と壁投げの最初に硬式ボールを使っているのだ。
練習試合後などは空手道の知人の整骨院にマッサージに行かせた。

こうしていよいよ大会への態勢が整ったと思ったとき…





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